吉行淳之介 私の東京物語 目 次   ㈵  鮭ぞうすい製造法  三人目の王様  三人の警官  菓 子 祭  暗 い 道  そ の 魚  廃墟の眺め   ㈼  蕎 麦 屋  昭和二十年の銀座  新宿・尖端の街  踊 り 子  むかし恋しい銀座の柳  私の小説の舞台再訪  飲  む  木馬のある風景  シャボテンの鉢  師走の隅田川  銀 座 と 私   ㈽  食卓の光景  香 水 瓶  暗 い 宿 屋  探  す  電話と短刀  風景と女と  編者解説 吉行さんの東京地図       山本容朗   ㈵  鮭ぞうすい製造法 「鮭の|雑炊《ぞうすい》を食いたくなった、つくってくれないか」  と、彼は細君に言った。  二度目の妻で、年齢は十七歳も離れている。 「そんなもの、聞いたことはないわ。どうやってつくるの」 「鮭の罐詰を開けて、冷たい飯と一緒に鍋に入れればいいんだ」  雑炊はでき上ったが、ひどく生臭い。 「これでは食えない。やはり、安ものは駄目だな」 「安ものといったって……。でも、なぜ突然そんなものが食べたくなったの」 「昔、食べたのがひどく旨かったのを、思い出したんだ。もっとも、あれには金がかかっていた。そうだなあ、一杯一億円くらいだったか」 「そんな大袈裟な。そのお金、あなたが払ったの」 「払えるわけはないさ、しかし、払ったといえば、払ったことになる」 「ぜんぜん分らないわ、どうやって、つくるのかしら」  そこで、彼はその製造法を説明することになった。  まず、ビルの地下室の小部屋に、鮭の罐詰をぎっしり詰めこむ。次に、爆撃機でその上空から焼夷弾を一山落す。命中させて全焼させるためには、かなりの分量の焼夷弾が必要であろう。  飛行機がいなくなって、鉄骨だけになったビルの地下室の鮭を罐のまま、十二時間ほど蒸焼きにする。中の空気は膨張して、罐詰は蓋が盛り上った形で焦げている。それを罐切りで開くと、中身は生臭さがまったく消え、さりとて焦げてもおらず、程良く香ばしくなっている。  昭和二十年五月二十五日といえば、三十年以上前のことになるが、その夜半にB29の二百機編隊が東京山手地区に焼夷弾の雨を降らせた。九段の|靖国《やすくに》神社は焼け残ったが、その近くから渋谷あたりまでの一帯が焼野原になり、彼の家も焼失した。それから四、五日、焼け跡での野天の生活がつづいた。彼の家の門のすぐ傍に落ちた焼夷弾が不発のまま、水道管を突破っていたので、水には不自由しない。  その水と防空壕の中の米を使って雑炊などをつくって食べていたのだが、そのうちの何食かは鮭罐を使って雑炊をつくった。  彼が卒業した小学校が、五分くらいのところにあった。その地下室にぎっしり詰め込まれたまま蒸焼きになっている鮭罐を、近所の連中がバケツを提げて拾いに行った。その罐詰がどこの所有物であったか、彼は今でも知らないが、この雑炊が一杯何億円かの料理の実体である。    お|伽話《とぎばなし》を聞いている表情で、彼の妻は、 「そんなこと言ったって……、でも、それじゃ一杯一億はかかるわね」  と、笑い、 「いいこと思い付いたわ。オーヴンに鮭罐を入れておいて、焦してから使いましょうか」 「それじゃ、あの味は出ない」 「そのとき、あなたはひどく|おなか《ヽヽヽ》が空いていたということなのよ。王様のスープ、という話があるじゃないの」 「それは確かにある。しかし、大きな釜でたくさん炊いた飯のほうが旨いじゃないか。それも電気釜じゃ駄目だ、薪で炊かなくては」 「昔の人は、よくそう言うわね。きっと、そうなんでしょう。でも、いまはそういうご飯だって、家庭では無理よ。そんな贅沢なことを言ったって」 「贅沢……、か」  彼の言いたいことは、どうも、若い妻には通じない。 (一九七七年)  三人目の王様  都心の溜り場での麻雀が終ると、四人のメンバーはただちに席を立って、それぞれの考え通りの方向に散ってゆく。  それはいつものことである。そのまま雑談などはじめると、かなり疲労している身なので動くのが厭になり、時間がするすると経ってゆく。そうなると、翌日の仕事に差支えるので、坐りこんでしまいたい気分を振切るようにして立上り、解散してしまう。メンバーの大半が、四十代から五十にかけての年齢であることも、その大きな理由の一つである。  ある夜、あらかじめ定めてあった回数が終ると、午前零時すこし前だった。 「すこし早いな、もう一回だけ打つか」  と一人が言い、残りの三人が賛成しかかったとき、一時間ほど前に姿を現して、うしろで観戦していたクロカワが口を挟んだ。 「みんなで酒を飲みに行きましょうよ、タマにはいいでしょう」  この男だけ、まだ三十歳になったばかりで、遊び盛りの年齢である。 「面白い店がありますよ」  さらに誘う。 「面白い店って、どこだ」  と、私がたずねた。 「アカプルコですよ」 「あの店か」  歩いて十分もかからないところにあるナイトクラブで、十年近く私はその店に行ったことがない。 「アカプルコがどう面白いんだ」 「いま、あの店の女は大部分が寝てくれますよ。それに……」 「ああ」  そういうことが面白い年代もあったな、と私はおもったが、クロカワは言葉をつづけて、 「早合点しないでくださいよ」 「なにが」 「もっと面白いことがあるのですよ。あの店の女たちは、いま三人目の王様を毎日待っているんです」  残りの三人も、その言葉に関心を示した。 「説明してくれ」  十年ほど前、アカプルコの女の一人が、南の国の大統領に気に入られ、妻の座を獲得した。第三夫人だが、その大統領は回教徒なので、側室ではなく妻である。この女は日本のマスコミを|賑《にぎ》わしたあげく、莫大な財産を手に入れ、大統領の死後はパリにいて優雅に暮しているらしい。五年前には、やはりこの店の女がある国の富豪と結婚するということで、マスコミを賑わした。今年はそれからまた五年目に当るので、そろそろ「三人目の王様」が現れる筈だ、と女たちは信じこんでいる。  女たちは、昼間は英会話の学校に通い、夜になると「三人目の王様」を待ちつづけている、という。 「王様がこないとは断言できないが、しかし……」  私が言うと、 「だから、寝てくれることになるのです。ただし、一流ホテルに部屋を取らないと、つき合ってくれません」 「それで、君はしばしば行くわけだな」 「この前、すごい女に会いましたよ」 「すごいって……、性的な意味か」 「そうそう」 「どんな按配なんだ」 「まず奥のほうから柔らかい触手みたいなのが伸びてきて、こちらを引張りこむ。ここまでは、そう珍しくもないでしょう」 「うん」 「それからが問題で。|烏賊《いか》を四角く切って、表に縦ヨコ|矢鱈《やたら》に切れ目を入れて焼いたオカズがあるでしょう。ギザギザのあるほうが上になって、反っくりかえっているやつ。ああいうのが、両側から出てきて、撫で上げてゆく」 「ギザギザのゴムマリに、両側から擦り上げられる感じか」 「そういうわけです。それが何度も繰返される。こっちは動かないでいいわけで、ラクですよ」 「そういうのは、はじめて聞いたな。生れつきなんだろうな」 「いやいや、習練と努力だと言っていました。大統領夫人になった女は、歯を全部抜いて総入歯にしておいて、それをはずしてフェラチオをしたので、あの地位が獲られた、というんです。そのくらいの努力をしないと王妃にはなれない、と言っていました」 「面白いじゃないか」 「最初はね、でも差別がひどくて」 「差別、というと」 「自分は王妃の候補で、さらに日本人ではない何者か、だとおもっているもので」 「うーん」 「店を出て、ホテルへ行くタクシーに乗るでしょう。すると、ゴー・アヘッド、と運転手に言うわけです」 「面白い」 「でもねえ、何時間もその調子でやられると……。ホテルの部屋で、電話のベルが鳴るでしょう。すると、オー・テレフォン、というようなわけで」 「なるほどねえ、なにか侘しいところのある話でもあるな」 「もっとも、本人は得意満面なんですから、そのほうは心配してやることはないんですよ」 「うーん、とにかく行ってみるか」  私が立つと、残りの三人も|踏切《ふんぎ》りの悪い態度で一人ずつ立上った。ともかく、そういう店を覗いてみよう、という気になったらしい。  五人の男は、戸外へ出た。そのうちの一人は、ゴムの突っかけ|草履《ぞうり》をはいている。ゆっくり歩いて行ったが、すぐに目的の店に着いた。  扉を押して店内に入り、そこに五人かたまって立止った。ボーイの案内を待ったわけである。不意に店の中が静かになり、僅かの間があって、サロンを纏った服装の女が走るように寄ってきた。 「お待ちしていました」  女が一オクターブ高い声で言う。私はクロカワを振返って、 「予約していたのか」 「いいや」  女はクロカワを認めて、 「あら、あなたが案内役なの」 「違うよ」  と女に言い、店内に眼を走らせた。  釣られて店の中を見渡すと、不思議な光景があった。店の女が全員サロンに身を纏っていて、その女たちのすべての眼が私たちのほうに向けられていた。  傍の客を無視して立上り、近寄ってくる女もあった。  サロンは回教徒の女の服装である。そういう服装の女たちが、つぎつぎと近寄ってくる。  女の数は十人を越えて、私たちを取囲むようになっていた。 「予約してないったら」 「いいじゃないの」  女の声が一斉に答え、女の輪が移動して「RESERVED」という札の置かれたテーブルに、私たちは連れて行かれた。 「誰の予約の席だ」 「王様よ」  どこか南の国の王様の予約が入っていた、と解釈された。私たちの行くまで、王様は現れず、閉店の時刻は迫ってきている。  それにしても、なぜ私たちは女たちに予約の席に引張って行かれたのだろう。あらためて、私は仲間を眺めた。  巨体に派手なアロハを着ているのがアサヤマで、半ば眠っているような顔をしていて、ほとんど口をきかない。ときに|目蓋《まぶた》を上げると、予想外に大きくてトロリとした目が現れてくる。  いまも、目蓋をすこしのあいだ上げただけで、黙っている。  ハタダは、前歯の上側がそっくり無いままだが、それを除いてもあきらかに異相である。眼が霞んだり、鋭くなったりすることを交互に繰返し、その眼の色もつぎつぎに変化して、変り玉のようだ。ハタダも言葉をださず、 「グフグフグフ」  と、水に|潜《もぐ》った怪鳥のような声で笑っただけだ。  異様に|痩《や》せた男は、ユキタという、楔形文字に似た模様が赤く縫付けてあるシャツが、尖った両肩からハンガーに掛けたようにぶら下っている。先日、タイへ旅行したときに買ってきたシャツで、なにかの植物の繊維で編んでつくったものらしい。二千円くらいの値段だと言っていたが、繊維を|晒《さら》したままの薄茶色のシャツである。 「ねえ、このかたたち、英語が通じるかしら」  クロカワの傍の女がたずねた。 「日本語だってよく分るよ」  クロカワが、答えている。 「そういえば、この人は日本人にそっくりだけど……」  女は私を観察する眼で見て、言った。 「でも、あなたたちのお国は、時計が珍しいのかしら」  |革紐《かわひも》で吊した懐中時計を、私は胸にぶら下げている。腕時計をすると手首の皮膚がただれる体質だし、麻雀で一局終って坐る場所が変るとき、そうしておいた方が手数がはぶける。胸のところにはもう一つ、黒い革紐で吊してある品物がある。黒い円筒形のケースに入っているので、見ただけでは分らない。女の言葉からは、時計が珍しいような国では、心細いという気持が感じられた。  日本語をすこしタドタドしくして、私は答えてみた。 「この時計、王様が見やすいように、こうやって吊してあるわけ、よ。わたし、王様の秘書官、つまりセクレタリーね、この黒い筒にはライター入ってる。いま、パリでファッショナブルなのね」  英語を二箇所、挟んでおいた。彼女たちが英会話学校に通っていることを、無駄にはさせたくない。  女は頷いて、さらにたずねた。 「あのひどく痩せた人、どういう役目なの」 「あの人、シークレット・サービス」 「あんなに痩せていても」 「体格、関係ないね、あの男、ナイフ使いの名人」 「そうすると、王様はあのアロハの肥った人ね。それとも、歯の無い人のほうかしら」  アサヤマは口をきかないから、そのほうでいいだろう、と私は頷いて、 「そう。もう一人は、外務大臣」  と答えると、大声で叫んだ。 「シャンパン」  話をそらす気もあったのだが、女はシャンパンをボーイに言いつけたあと、さらに追及してくる。 「それで、あなたのお国の名は」  |咄嗟《とつさ》に私は答えた。 「ケルマデク」  トンガ・ケルマデク海溝という存在を、トンガの王様が来日したとき、地図を眺めていて知った。ケルマデク諸島が、現在国家の体制を整えているかどうか私は知らないが、その名前が忘れっぽい私の頭に浮んできたのは奇蹟に近い。  女と私との会話は、残りの四人の耳に届いている。それぞれ、自分の役割を果す気持になっているらしい。  ユキタは素早い動作で、タイ製のシャツの襟首から片手を差し入れ、抜き出した手首で|颯《さ》っと空を切ってみせた。昔、不良少年の時期を送った男で、身のこなしが鋭く、|揃《そろ》えた指がまるで短刀のようにみえた。  銀色の容器に氷を詰め、ボーイがシャンパンを運んできた。瓶を片手に持ち、威勢のよい音を立てて栓を抜く仕種に移ったので、私は立上ってそれを制した。 「おう、いけません。シャンパンの大きな音、品が悪い。王様怒る。派手な音を出してはいけません。社交界のルール、王様うるさい」  ボーイは頷いて、適当な音で栓を抜き、シャンパングラスに注いだ。  グラスの細い柄を持って、四人が立上った。私はたった一つだけ知っているスワヒリ語の単語を二つに割って、音頭を取った。 「クンダリ、ニイ」  まず小さい声で独り言のようにそう言って、ほかの四人に言葉を覚えさせ、 「王様の健康を祝します。クンダリ、ニイ」  と言うと、四人が声を揃え、王様役のアサヤマは黙って坐ったままゆったり微笑を浮べた。  予約の席に、五人が坐ったときは、女たちは半信半疑だった。毎夜毎夜、三人目の王様を待っているとき、予約が入った。おしのびの遊びだから、具体的な事柄は告げられない。ただ、南の国の王様ということが分っているだけで、確認する先も教えられていないのだろう(あるいは、これは|悪戯《いたずら》だったのかもしれない)。その王様は午前零時を過ぎても、姿を見せない。しかし、今夜、王様が現れなくては、彼女たちの思い詰めた気分は持って行き場所がなくなる。  そのとき、異相異形の男たちが入ってきた。王様かどうかは甚だ怪しいし、予約したことを否認するのだが、この男たちが王様の一行でないと、彼女たちの立つ瀬はない。  私たちも、予備知識は持っていたが、王様の一行に化ける気持はなかった。しかし、女と言葉をやりとりしているうちに、しだいにツジツマが合ってきた。女たちの信じる分量がしだいに増え、私たちはゲームをつづけてみようとする気持が強くなってきた。  女たちの眼と顔が期待にかがやきはじめるのを見ると、協力したくなってくる。私たちは共犯ではあるかもしれないが、すくなくとも|騙《だま》しているわけではない。贋の王様でも、現れないよりは、いま目の前にいる気持を起させているほうが、女たちにとって充実した時間が過ぎている筈だ。  そういう時間があったことを忘れて、 「にせものだった」  と、あとで女たちは怒るだろう。しかし、それはそれでよい、と私はおもった。  そのとき傍の女が、たずねた。 「王様のお名前、なんとおっしゃるの」  今度は、咄嗟に考えが浮ばなかった。 「王様のお名前だって」  ほかの四人に聞えるように私は言い、 「なにしろ、おしのびだから」  と、考えるふりをした。 「でも、ケルマ……、なんとかって、お国の名前はすぐに教えてくれたじゃないの」 「うーん」 「王様は英語がおできになるでしょう。あたし、おたずねしてみようかしら」 「待ちなさい」  おもおもしく、私は言い、 「そういうことは、じかにおたずねするものではない。英語でも失礼だ。よろしい、わたしが教えてよいものかどうかおききしてみよう」  こうやって時間を稼いでいるうちに、仲間の誰かが適当な名前を考え出してくれるのを待っていた。しかし、その方に頭が向いていたので、自分の日本語が流暢になっていたのに、私は気付いた。それに、これから架空のケルマデク語を、私は喋らなくてはならないことになった。  アサヤマのほうへ、恭々しく身を乗り出して、私は言った。 「ヒズ・マジェステ、ハナ・イイキン、ナカキン・デメ、アト・デコキン」  古典落語に「|黄金餅《こがねもち》」という名作がある。故古今亭志ん生の得意とした|噺《はなし》で、不精者の和尚がいい加減なお経をあげるところが、その後段にある。そのお経の三分の一ほど抜き出してみると、 『金魚よお、きんぎょー、|三《み》い金魚、|端《は》なの金魚はいい金魚、中の金魚は出目金魚、後の金魚はデコ金魚、天神天神、鉛の天神いい天神、虎が鳴く虎が鳴く、虎が鳴いては大変だア、犬の仔があ、チーン』  ということになり、そこから即席のケルマデク語を、私はつくった。  こうやって時間を引延しているうちに、ハタダが思い付いたらしく、軽く手を上げて合図した。アサヤマはハタダのほうへ首を向け、鷹揚に肯く。 「お許しが出ました。スポポポ国王と申される」  そうハタダが言ったとき、私はおもわず笑い出しそうになった。先刻この店へくるあいだ、ハタダはアサヤマを相手に麻雀の一局面についての反省を話していて、 「結局、あの四筒(スーピン)の※[#「石」+「並」](ポン)が敗因でしたね」  と言っていた。  そこから「スポポポ国王」という名前が出てきたと推察できたからだ。 「スポポポ王様ね」  と、女は頷き、 「いかにもお金持の名前ねえ、石油がどんどん噴き出しているみたい」 「ケルマデクには、石油資源はない」  と、私が言うと、女がたずねる。 「それじゃ、なにが」 「ま、そういう問題は。いまは、おたのしみのところだから」  ハタダ外務大臣が、女をたしなめた。  そのとき、事態は急変した。大きなダミ声が聞えてきた。 「おーい、おめえたち、珍しいところで会ったなあ」  振向くと、仲間の一人のチカフジが、浴衣がけに下駄をはいた姿で、遠くのほうにのっそりと立っている。かなり酔っている様子で、大股に近づいてくる。 「あの人、誰」  女の一人が、咎めるように言う。 「あのお方は、となりの島の国王で」  と言いかけて、私はやめた。  チカフジの浴衣姿が、いくら異相異形のメンバーでも私たちがまぎれもない日本人であることを、あぶり出しのように浮き上らせてしまっている。  一座の中に割り込んできたチカフジは、手近の女の膝に腰をおとし、 「なんか、おもしろそうだな。おめえっち、なにやってんだい」  と、言った。  五人の男は一斉に、溜息のような声を出し、女たちは黙っている。やがて、女たちの一人が言った。 「騙したのね」 「最初から、違う、と言ったじゃないか」 「でも、騙したのね」 「君たちの気に入るように、振舞っただけだよ。予約の席があのままになっているより、余程良かったろ」  クロカワが言ってみているが、私の予想通り、女たちは不機嫌に押黙っている。  しばらくして、女の一人が気を取直したように、客の数の|疎《まば》らになった店の中を見まわして、 「今日も、王様はこなかったのね。でも、明日があるわ」  一拍、置いて、 「どう、あんた、これからつき合ってあげてもいいわよ」  と、恩恵を施す口調で、私に言った。 (一九七六年)  三人の警官  何年に一度しかない議論というものを、二十歳も年下の男を相手にして酒場ではじめてしまった。  そのときは、ミキが一緒だった。  一時間前、ミキと私はべつの酒場にいた。そのクラブには、ほとんど満員の客が入っていた。ミキは小柄でいくぶん斜視だが、ハデな顔立ちでよく目立つ。髪を長く肩まで垂らしている。  ミキと私は壁を背にして腰かけ、私たちの前にその店の女がいた。  ミキが私に目配せした。 「そろそろ、はじめましょうよ」  という合図である。  頷いた私は、ミキの長い髪のうしろをかき上げて、洋服の背中のボタンを一つ一つはずしはじめる。腰の上まで連なっているボタンを、全部はずしてしまった。  ミキのとなりに腰をおろしたまま、私はその洋服の|襟《えり》のあたりに手を触れる。撫で肩のために、布はたちまち両肩からはずれて前に落ちた。ブラジャーをしていないので、乳房の隆起がそのまま露わになった。かなりの大きさで、薄桃色の乳首が綺麗である。 「あらあら」  前にいる女が、自分のことのように狼狽したが、そう言ったまま坐っている。やがて、店の中にいる人々が気付いて、一瞬シンとなった。ミキは、胸を張って|艶《あで》やかに笑っている。  黒服のマネージャーが、急ぎ足で寄ってきた。 「お客さま、ご冗談は困ります」 「なぜ」 「なぜと申しましても……、若い女のかたが突然そんな恰好になられますと」 「若い女か……」  と言って、私はその乳房を撫でてみると、ミキは身を|揉《も》んで機嫌よく笑う。 「困ります、困ります」  マネージャーが言う。 「そうか、困るといえば、困るかな」  私はミキの洋服を元通りにして、ゆっくりボタンをかけた。店の中がざわめいて、吐息のような音も聞えた。 「きれいな乳房だろ」 「ええ、でも……」  と、前の女は私たちの突飛な振舞の意味を知りたがっている顔になっている。 「男の胸が女のかたちをしていて、その胸を男が出しても、やっぱりいけないわけだな」  私がそう言ってみると、 「なによ、ややこしい。あたしは、女だわよ」  と、ミキが言った。声を出すと、分ってしまう。ゲイボーイ特有の声である。 「あら」  前の女が、もう一度、驚いた顔になった。あとで、その事実は店の中に伝わってゆくにきまっている。 「もう一軒、行きましょうよ」  ミキは立上って、私を促す。ミキとは飲み友だちのようなものだが、行く先々の店で乳房を出すことが、儀式のようになっている。店内の人々を驚かすことで、自分の躯が女のかたちになっていることを確認し、それが快感につながっているようだ。    地下室のバーへ降りて行こうとすると、 「あら、ここなの」  と、ミキは不満気である。マダムとバーテンだけの小さいバーで、|顔馴染《かおなじみ》になっているので、ミキの見せ場は客が対象に限られてしまうしその数もすくなくなる。 「もういいじゃないか、今夜は疲れたよ。ゆっくり飲もう」  ドアを開くと、目の前に年下の友人がいた。同年輩の仲間二人と一緒だが、その二人は顔を知っているだけである。  この連中と議論になった。酔っているときは、頭の中が明晰でないので、論旨が擦れ違って僅かの距離を進むのに時間がかかる。ふと気付くと一時間くらい経っているのに、話はほとんど同じところをまわっていて、まったく馬鹿らしい。  議論のキッカケといえば、スプーンが曲るのは超能力かどうか、ということで、これも馬鹿らしい。  もちろんそれは手品だ、と私は言い、相手は三人がかりで、そういう発想は老化現象のあらわれだ、という。  その年下の友人は、このごろ二人の女の板挟みになっていて、苦労していると聞いていた。酔っぱらうと、泣くことがあるという。その話を聞いて、私は驚いた。女の苦労は男の人生につきものである。腹の中で泣いている男が多い。それだけで済むことではなく、東奔西走、なんとか処理しようとしている。 「やっぱり、まだ子供なんだなあ」  とおもっていた相手から、老化現象といわれるのは心外である。 「人間の能力には、まだ未開拓の部分がありますよ」 「それは否定しないが、スプーンの場合は話が違う。念力をかけても、時計は逆にはまわらないだろう」 「しかし、現にスプーンは曲っているじゃありませんか」 「それは、どこかで力を入れているんだよ」  私は、その店のスプーンを、片手で二、三本曲げてみせた。 「そこが老化現象というんですよ。超能力で曲ると考えたほうが、人生が豊かになる」 「スプーンが曲ると人生が豊かになるとおもうのは、気の弱りだ」  傍で、ミキがアクビをした。  私は話の角度を変えようとした。 「これがスプーンでよかったよ。スプーンじゃなかったら、話がもっと厄介になる。戦争中にまた逆戻りして、制服を着せられたいのか」  しかし、相手は納得しない。ミキが、突然言った。 「あたし、制服って、大好き」 「なぜ、好きなんだ」 「とっても、感じちゃう」 「話が別だよ、自分が着せられるのも、好きなのか」 「それは厭よ」 「しかし、なぜ制服に感じちゃうんだ」 「だって、恰好がいいもの」 「巡査の制服って、恰好がいいか。水兵のセーラー服も、かなり|侘《わび》しいぜ」 「でも、感じちゃう」  制服のうしろにある集団を感じるのではないか、と私はおもった。男ばかりの集団の、汗のにおいの混った男くささを……。ミキも酔っぱらっている。そんなことを言ってみても、無意味なことのようだ。だいたい、私たちは何を話し合っていたのか。歯車が噛み合って、論理的に話が動いてゆくことがなく、そのくせ時間だけはするすると流れてゆく。もう夜中の三時に近く、テーブルの上はきれいに片付けられてしまっている。会話はますます断片的になり、三人の青年の一人が、ついに紋切型の言葉を口にした。 「戦争中は、大人がだらしなかったんだ」 「そうかね、スプーンが曲ることを信じているようでは、君たちが戦争中に生きていたら、神風が吹くのを信じたろう」  そう答えてから、私は自分が戦争中には大人ではなくて少年だったことに気づいた。 「おれも、戦争のときはまだ子供だったが、そうとばかりは言えないな」  腹は立っていないので、言葉のやりとりはトゲトゲしくならないが、苛立たしい気分にはなっている。 「戦争体験なんか、大したもんじゃない」  青年の一人が、そう言う。苛立たしい気分が一層濃くなった。 「そうかもしれないがね、戦争のときの日常生活というのは厭なもんだよ。毎晩空襲警報のサイレンが大きな音で鳴ってな、防空壕になんかいちいち入りはしないが、目が覚めてしまう。電車に乗ろうとおもえば、一時間くらい待たなくてはこないし……」  そういう言い方で反論をしているとき、ドアが勢よく開いた。  体格のよい若い巡査が、姿を現した。  巡査は三人いるのだが、狭い入口なので、重なり合うようになっている。室内には入ってこないで、戸口に立ちはだかっている。 「なにをしているのですか」  マダムが小走りに、入口に近づくと、 「もう帰るところです、お話をしているんですわ」  テーブルの上に、巡査は眼を向け、 「酒は出ていませんな。遅いから、もう帰ってください」  と言って、あっさり姿を消してしまった。三人の巡査の関心は、風俗営業の時間にだけ向けられている。 「ずいぶん簡単に引上げてくれたな。彼らも自分の生活が大切だから、逆に苦情をつけられると困るんだ。しかし、これが戦争中だったら厄介だね。地下の密室に許可なくして集合謀議し……、ということで、たちまち警察に連れて行かれてしまう。拷問だってされるかもしれない」  私はそう言ったが、三人の青年には一向に実感がつたわらないようだ。ミキは指のあいだに短くなったタバコを挟んだまま、 「制服って、迫力があるわ。あたし感じちゃったあ」  と言って、ソファに深く腰をおろしたまま、動かない。 (一九七四年)  菓 子 祭  内ポケットから取出した老眼鏡をかけて、ウェイターに手渡されたメニューを開くと、三輪はテーブルの向うに坐っている景子に声をかけた。 「メニューというのはな、夕刊を読むように読んでいいんだよ」  その景子にも、当然メニューは渡されてある。景子は三輪より三十五歳ほど年下の少女である……。そういう持ってまわった言い方よりも、「三輪と景子は父娘である」と書いたほうがいいかもしれない。景子が三輪の実の娘であることは間違いのないところだが、ストレートな言い方では|零《こぼ》れ落ちてしまう事柄が幾つもできてしまう。  メニューには、オードブル、スープetc、と項目別にたくさんの文字が並んでいるが、自分の嗜好に合う料理が三輪にはすでに分っている。あとは、その日の気分によって、取合せを考えればいい。  間もなく、オードブルから肉料理までの皿が、三輪の頭の中に並んだ。デザートは、料理が終ったあとでデザート・メニューを持ってきてもらえばよい。  しかし、三輪はメニューを開いたままで、老眼鏡をはずして景子の様子を見た。  景子は眼を上げて、言った。 「よく、わからないわ」 「仔牛の咽喉のところに、ぐりぐりしたかたまりがあってね、これをリ・ド・ヴォーというんだ。その料理でも、頼んでみるか」  傍に佇んでいた黒服の男が、言った。 「それは、おやめになったほうがいいのじゃありませんか」  三輪は、男を見た。昔馴染の店だが、いまでは一ヵ月に一度くらい行くだけだから、顔だけで名前までは知らない。  フランス料理のレストランで、場所は銀座である。そういう料理は三輪の日常生活の一部になってはいないので、メニューに見当のつかない料理の名があると、その内容をたずねてみることはある。また、皿と皿との取合せ、つまり料理の流れについて、その黒い服を着たボーイ長の意見を聞いたことも二、三回はあった。  しかし、相手から積極的に意見を述べられたことは、初めてである。  三輪は、その男を見て、 「どうして」  と、たずねた。 「すこし、くどい味ですから」 「しかし、この子は、食べざかりの齢だからね、くどい味くらいは……」  景子は、中学三年生である。  その大人同士の問答は、景子の言葉で|鳧《けり》がついた。 「あたし、鴨がたべたいわ」 「そうか、鴨の料理にもいろいろある。メニューをよくみればいい」 「ここに書いてあるだけじゃ、どんなものか分らないわ」 「分らないときは……」  景子の傍に立っている黒服の男のほうを見て、 「その人に聞けばいい」  男は指先でちょっと黒い蝶ネクタイに触れると、景子のほうに|慇懃《いんぎん》に身を跼めて、メニューを覗いた。三十歳半ばだろうか、まるい柔和な顔をした男である。一ヵ月前に、景子とこの店にきたときにも、親切にしてくれた。あるいは、さらにその一ヵ月前のときにも……。  景子もそのことを覚えているのだろう。メニューの活字をおさえて、 「これとこれと、どう違うんですか」  とたずねている。  男は、かなりくわしく調理の仕方の違いを説明して、言った。 「こちらのほうが味が淡泊になっておりますので、おすすめしますが」  三輪は、もう一度訝しい気分になった。十五歳の少女の嗜好は、むしろ濃厚なものにむかうことが多いのではないか。 「それに、このほうが量が少ないですし」  男がまた言った。  景子はすこし考えて、答えている。 「それでいいわ」  三輪は口を挿んだ。 「それじゃ、こっちもメインを先にきめることにして、舌びらめのムニエルにしよう。スープはコンソメ、景子もスープは同じでいいだろう」 「いいえ」  景子ははっきり言うと、メニューに眼を向けて、 「コーンのクリームスープ」  三輪は苦笑して、頷いた。そういう態度は、三年前に三輪が景子に教えたものである。事情があって、三輪は自分の娘の幼年のころも小学生時代も知らない。中学に通うようになったとき、一ヵ月に一度だけ、会って夕食を一緒にする|きまり《ヽヽヽ》をつくる段取りをつけた。  そういう時間に、自分流儀の教育をしてみようと三輪はおもい、手おくれかな、ともおもった。  十年ぶりで十二歳の景子に会ったとき、三輪はいきなり、こう言った。 「一番ソンをしたのは、おまえだ。その点、気の毒におもっている。しかし、こういうことは、世間にいくらでもあることだから、肩身を狭くする必要はないぞ。それに、おまえがおれの娘なのは、変りはないことだ」  そのとき、ついでに言った。 「自分の意見は、はっきり言わなくてはいけないぞ。AかBか、とたずねられたとき、どちらでも、と答えるのはよくない」  三年後のいま、景子は確かにはっきり意見を述べた。 「スープはコンソメでいいだろ」 「いいえ、コーンのクリームスープ」  その主張の仕方は、いささか強過ぎはしないだろうか。景子の内心は掴みにくい。|なつ《ヽヽ》いているようでもあり、反撥を隠しているようでもある。  ところで、三輪はメニューを眺めたまま、 「オードブルは……、鴨のテリーヌにしようか」  と呟くと、景子が聞きつけて、たずねた。 「それ、どういうものなの」 「鴨の肝のペーストのようなものだ」 「あたしも……」  景子のその言葉を遮るように、黒服の男が口を開いた。 「お嬢さまは、オードブルはおよしになったほうがいいとおもいます」  怪訝な気分を通り越して、三輪はすこし腹立たしくなり、 「君、それはどういう意味かね」  と、咎める語気になった。  男のまるい柔らかそうな顔の肉に、そよぐような微笑が浮んできて、 「あとでいいものが、用意してありますから」  その語調に含まれている好意はあきらかなので、 「ほう」  と、曖昧に言って、三輪は黙った。  食前酒に頼んだドライ・シェリーを飲みながら、三輪は景子に話しかける。 「いま、どんな本を読んでいる」 「三つほど、一緒にとりかかってるの。あっちを読んだりこっちを読んだりで、忙しいわ」  本の好きな娘である。 「一つ言えばいい」 「そうね、一番長いのは『大菩薩峠』だわね」 「その選択は、悪くない。もっとも、おれは三分の一あたりで先へ進みそこなったが、おまえはどんな具合だ」 「もうあと少し」 「それは頑張ったもんだ。それじゃ、机龍之助はもう眼が見えなくなってるんだな」 「そうよ」  残りの二冊は推理小説だそうだが、その内容をたずねるのは話がくどくなる。ほかの適当な話題を見つけそこなって、三輪は黙った。  その沈黙が、気詰りになってくる。自分の娘と食事をしていてこういう気分になるのは、やはり正常のかたちから遠いことだ、と考えている三輪の左のほうから、女の声が聞えてきた。とくに大きな声ではないのだが、会話のない時間を気にしていた三輪の耳に、その声は真直に届いた。 「思い切ってお電話したの。そしたら、女のかたの声がしたでしょ、よっぽど電話を切ってしまおうとおもったんだけど、でもね、それじゃ一所懸命お電話したのが無駄になるもの、あのかた奥様でしょ、でもすぐに取次いでくださったわ」  その女の声の質は甲高くすこし|罅《ひび》われており、三輪には甚だ耳ざわりである。それが逆に、耳を傾けさせることになった。 「この前、週刊誌を見ていたら、先生のお写真が出ていたでしょう。きゅうにお会いしたくなって。お名刺いただいといてよかったわ、それで、思い切ってお電話したの」  週刊誌に写真の出ていた先生……、誰だろう、と三輪ははじめて声のほうに眼を向けた。見覚えのない初老の男が、近くの席に若い女と向い合って坐っている。実直な風貌で、あきらかに女の取扱いに馴れていない律義さがあった。学者だろうか。  上機嫌を押殺している表情で、 「うふっ、うふっ」  と、内心で喜んでいるその男の声が聞えてくるようだ。  その女が水商売であることは、一目で分る。銀座の女は、身につけている雰囲気で、店の名まで分る場合さえある。その女は、三輪がほとんど足を向けないキャバレーの女性とみえた。幅のひろい顔に、極彩色に化粧している。  すくなくとも三輪にとっては、向い合って食事して、嬉しい相手ではない。しかし、初老の男の心の弾みが波になって伝わってくる。 「ともみちゃんも誘ったのだけど、彼女、お食事する約束ができていたので、残念だったわ」  そのともみという女が食事をしている日本料理の一流店の名を、女は口にした。三輪は厭な気になった。  白服のウェイターがその席に近寄って、メニューを差し出した。男は一応それを受取ったが、 「ぼくは、もうきまっているんだ。ローストビーフに、ワインの赤」  その言い方は、悪くない。もっとも、家を出るときから、その料理を思い詰めてきた気配もあったが。ただ、この店には、ローストビーフは無い筈だが……。 「ローストビーフは、ございません」  ボーイが抑揚のない声で言った。 「無いのか」  落胆した声を、男は出した。男の構想は一挙に崩れ、新しい料理を考える力を失ったようにみえ、あらためてメニューを開いた。 「あたしは、自家製のフォアグラに、スープは|蝦《えび》を殻ごと潰したのがあったでしょ、ほら何と言ったっけ」 「ビスクでございます」  と、ボーイが答える。 「それと、帆立貝のムースと、それから、|鶉《うずら》のソテエ」  この店の料理を、よく知っている、と三輪はおもい、その初老の男の財布のダメージを考え、疎ましい気分になった。その気分は、男にたいしても向けられていて、「一度会っただけの女に電話で釣出されるから、いけないんだ」、「それにしても、まだ電話戦術が効果があるとはなあ」などと考えている。  しかし、男のいそいそした気配はつづいていて、メニューから顔を上げると、ポタージュとステーキを注文した。  数ヵ月後のこの男の状態は……、と三輪は気懸りになったが、「見知らぬ人の心配をしている場合ではない」と気づき、そちらの側の耳を半分塞ぐことにした。  そのあと、時折聞えてくる声は、女がおもで、 「この前、週刊誌を見ていたら……先生のお写真が……お名刺いただいといて……思い切ってお電話……女のかたの声が……あのかた奥様でしょ」  端をつなぎ合せて輪にしたテープを聞いているように、同じ言葉がえんえんと繰返されている。  会話のない男女なのである。しかし、男は満足そうに、赤ワインのグラスを口に運んでいる。  一方、三輪たちのテーブルでは、鴨料理の皿が景子の前に置かれた。さっそく、景子はナイフとフォークを両手に持った。テーブルマナーは、これまでに少しずつ教えてある。  鴨の皿には、かなり多量のホーレン草が付け合されている。景子のナイフとフォークが巧みに動き、皿の上はみるみる減ってゆく。  いつの間にか、黒服の男が傍に立っていて、背を跼めてその口を景子の髪の毛に触れるように近づけると、 「野菜のほうは、すこしお残しになったら」  ナイフとフォークを停めて、景子は顔を上げた。三輪も、怪訝な眼を向けた。 「いえ。あとで、いいものが、用意してあるものですから」  そう言い残すと、背を向けて去っていった。その不審な態度を追い払うように、三輪は景子に話しかけた。 「その鴨、うまいか」 「ええ」 「寒くなったから、鴨の季節だがね。しかし、いまの鴨は天然なのかな」 「さあ」 「おれが若いころは、肉のうちでは鶏が一番好きだった」 「あたしも」 「いまのブロイラーの鶏は、なにか別のものだね。昔のやつは、葱とトリ肉を塩だけで炒めたものなんかでも、素晴しく旨かった」 「でも、あたしたちはブロイラーしか知らないもの」 「ま、それが旨いとおもえば、それでいいわけだが」  そこらで、会話は立消えになる。景子の内心は、探り兼ねる。おそらく、景子にはひどく大人の部分と、年齢よりも稚ない部分とが共存しているのだろうが。  やがて、三輪の皿の舌びらめは、頭と骨だけになった。景子の皿には、ホーレン草がすこし残してある。黒服の男の|気魄《きはく》のようなものに、圧されたのだろう。  皿の様子に眼を配っていたらしい男が近寄ってきた。 「デザート・メニューを」  三輪が言うと、小型のメニューを男は差し出し、 「お嬢さまのほうは、きょうはおいしいお菓子を揃えてありますから、たくさん召上ってください」  その言葉の後半は、唾の溜ってゆく湿った口振りになった。眼がすこし宙に浮いているようにみえ、三輪はかすかな異常を感じた。 「さあ、それを」  男が腕を上げて合図すると、たちまち白服のボーイたちが菓子の載ったワゴンを押してきた。  そういうワゴンが、三つ連なって景子の傍に置かれたので、三輪はたじろいだ。  一つ目のワゴンには、フルーツのタルト類、つまりフランス式のパイが並んでいる。円型のパイの皮が受皿になって、いろいろの果物の砂糖煮が盛られてある。黒すぐりとかパイナップルとかあんずとか……。小型のタルトレットも色彩華やかに添えられている。  フランスの菓子は、色合がやや渋くて毒々しくはないが、これだけ並ぶと「満艦飾」という眺めになる。  二つ目のワゴンには、中央に大きなチーズクリームケーキが置かれ、その表面の白いひろがりが粘った光をかすかに放っている。そのまわりにシュークリームとエクレアが、必要以上に隙間なく並んでいる。  最後のワゴンには、苺のショートケーキが堂々とした威容を誇っていた。その大きな円の縁に、絞り出された生クリームの小さな飾りの山がずらりと並び、その盛り上りの中央に一つずつ、柄のついた桜桃の砂糖煮が押しつけるように置かれてある。その果物の表面には鈍い光沢がある。苺はその大きなスポンジケーキの中に埋まっていて、まだ見えていない。 「さあ、たくさん召上ってください。どれになさいます」  男の眼が潤んでいて、二、三回揉み手をすると、 「さあ」  と、上擦った声で言った。  揉み手はおもに世辞を使うときにするものだが、この男の場合には、自分自身の満悦と恍惚をあらわすもの、つまり舌舐めずりの気配があった。しかし、それが何なのか、分らない。 「特別料理ね」  と、景子が三輪に小声で言った。  特別料理にはちがいないが……。三輪は、ふと気付いた。本好きの景子は、いま推理小説にも凝っていると言っていた。 「エリンか」  小さい声で言ってみると、景子は三輪を見て、すこし笑って頷いた。エリンという作家の「特別料理」は、レストランを舞台にした無気味な短編で、大人のための小説である。  そもそも、この三つ連なっているワゴンの菓子が似合うのは、小学初年級までではあるまいか。  景子と三輪の前に並べ立てられているが、やがて二人を取囲み、襲いかかってきそうなこれらの菓子は、なにを意味しているのだろう。黒服の男は、三輪と景子とのあいだの事情を、この店の女主人から聞いているかもしれないし、いないかもしれない。 「なにになさいます」  促す男の声が聞えた。 「それを三つくらい」  タルトレットを指さした景子がそう言っている。  男の眼は釣上って、黒眼が白眼の中に滲みこんだようになっている。その表情を見ると、これら夥しい菓子は、男自身の内側の事情と絡まり合っているような気がしてくる。それが何か、想像もできないが。  タルトレットを五つ、景子の皿に移すと、男は勝手にショートケーキにナイフを入れはじめた。 「あ、もういいわ」  その景子の声が耳に入っているのかどうか、円型の大きなケーキの六分の一ほどを、きわめて慎重な手つきで鋭角三角形に切離した。中身を挟むスポンジの幅はきわめて薄く、苺の鮮かな赤、……表面の|罌粟粒《けしつぶ》状のもののためにざらざらした赤が、はじめて顔を出した。まん中が白く、縁へとしだいに赤味を増してゆく苺の切断面では、汗をかいてゆくようにその果物の|漿液《しようえき》がゆっくり滲みはじめている。 (一九七九年)  暗 い 道  麻雀が半|荘《チヤン》六回終ると、疲れ果てた。数年前までは、徹夜もできたのだが。  KとAは、まだ物足らなそうな顔をしている。  場所は、都心の和風旅館である。といっても、色気のある家ではない。地方に住んでいる小説家Kが上京してきたとき、仕事場にしている旅館である。  その夜は、旅館の|女将《おかみ》をまじえて、卓を囲んだ。  午後八時からはじめた麻雀なので、午前二時になっている。 「もう帰る」  と言うと、KとAは不服そうな顔をしていたが、 「仕方がない、トランプでも二人でやるか」  KとAとが、二人同時にそう言った。女将のNちゃんは顔をしかめて、 「あたしゃ厭だよ、差しでやってよ」  厭だというのも無理はない。この二人が向い合って、ブラック・ジャックをはじめると、何十時間経てばおわるか見当が付かない。  二人とも|齢《よわい》五十なのに、恐ろしいほどの体力である。先日も、この二人が対坐して、えんえん三十時間に及んだ。 「Nちゃん、灰皿っ」  Kの胴間声がひびく。これは、タバコの吸い過ぎで、灰皿が一ぱいになったのとは違う。Kはつねづねこう宣言しているのだ。 「おれはな、|赫《か》っとするタチだから、そうなったら、何をするか分らないぞ。灰皿は傍から離しておけよ、おめえっちの頭をガチンとやるかもしれないからな」  徹夜になったゲームが、翌日の午後までつづいている。二人の閉じこもった一室から、 「ウオーッ」 「ギャーッ」  という叫び声が、時折ひびいて、あとは静かになる。  丁度、全日空のハイジャック事件のあった頃で、Nちゃんから家にいる私のところに電話がかかってきた。 「うちの旅館、まるでハイジャックに乗っ取られたヒコーキみたいになって、みんな息をひそめているのよ」 「もう二十時間くらい続いているんだろう、どうなるんだ」 「どっちかが死ぬまでやるんだ、って叫んでいたわ」  喚き声が聞えるので、Nちゃんがそっと覗きに行くと、二人の大男がぬうっと畳の上に立上って睨み合っているところだった。間もなく、腰をおろしゲームを続けはじめた、と言う。  今夜もまた同じようなことになりそうなので、一人で帰ることにした。  戸外へ出て、三百メートルほど離れた駐車場まで四角い石を並べた歩道の上に、靴の底を当てる。傍の車道はアスファルト舗装で、都心の街には土がない。  梅雨の時期はまだ終らず、雨は降っていなかったが、湿った空気が肺に入ってくる。  大通りから離れた道には、街灯が疎らで薄暗い。  疲れているので、三百メートルの距離が長く感じられはじめたとき、目の前の路地から黒い影が出てきた。浮浪者のような風体のその男が、すうっと傍に寄ってくると、低い声で言った。 「海は、まだ、遠いですか」  都会のまん中での質問である。 「え」  問い返す言葉だが、じつは背筋が寒くなって出た声である。 「海はまだ遠いですか」  もう一度、男が言った。  首を振って、黙って早足になった。首を縦に振ったか、横に振ったか……、この際どちらでも同じことだ。  背中に神経を集めて歩いているが、追ってくる気配はない。  やがて、眼の前に、駐車場の入口が黒い穴になって開いているのが見えてきた。  運転席に坐ると、一層疲労が強く感じられてきた。これから車を動かすのが億劫である。  なにか|癪《しやく》にさわる気分が起ってきた。いま怯えた自分にたいしての気持でもある。 「あの野郎」  黒い影で、顔は見えなかった。 「それにしても、なんであんなことを訊ねやがったんだろう」  と呟きながら、セル・モーターをまわした。エンジンが、鈍い音で響きはじめた。    高速道路を走っている。  先日の深夜、タクシーに乗って、 「高速に入ってもいいですよ」  と、言った。その道路を使うと遠まわりになるのだったが、信号に引っかかるのが煩い気分になっていた。  それまで、乱暴な言葉遣いだった運転手が、にわかに丁寧な態度になって、 「え、いいんですか。有難いお客さんですなあ」  と言い、車のすくない高速道路を走らせながら、 「いい気持です。まるで、専用道路ですねえ、一日中のストレスが一挙に吹飛びますよ」  感謝の言葉を繰返す。効果を計算して言ったことではなかったので、くすぐったかったが、「なるほど」ともおもった。  しかし、いま高速道路を走っていても、一向に疲れは抜けて行かない。  かえって、腹が立ってきた。 「あの野郎」  また、あの男のことが、頭の中に出てきた。 「真直ぐにどんどん歩きなさい。そんなに遠くはないですよ」  そう言って、東京湾の方角を指さしてやればよかった。  そう考えたときから、フロントガラスの向うの視界の有様がすこしずつ変ってきた。  都内の高速道路は、蛇行している。一本道のカーブのところの壁が数百メートル向うに見え、そのカーブを曲ると次の壁が見えてくる。  そのことに変りはないのだが、視野にある道路の分量がしだいに減って、青黒い空のひろがりが大きくなってゆく。 「これは、どういうわけか」  ふと気付くと、胃の高さにあったハンドルの下辺が、胸のあたりにきていた。  浴槽にゆっくり水が溜ってゆくように、ハンドルがせり上ってゆき、空の部分が拡がって、道路が見えなくなってしまいそうだ。  自動車が、突然巨きく膨れ上りはじめた、とおもった。  このままでは、衝突だ。そのとき、家に辿りついた。車は支障なく車庫に収まった。とすると、巨きくなったのは車ではない。私の躯が小さくなっていったのだ。  いそいで、背伸びしてドアのロックをはずすと、外へ出た。地面に降り立つのには、大きく股を開かなくてはならない。  飛び上るようにして、玄関のベルのボタンを押したとき、 「海は近いですよ」  と、あの男の声が聞えてきたような気がした。     胴を左右から強く締めつけられるような心持がして、烈しい苦痛を覚えた。柔らかい肉のようなものなのだが、強い力で締め付けられて呼吸がとまりそうになった。もう一度、似た感覚が襲ってきた。今度は、以前より堅いコリコリした肉である。  しばらくは、暗い湿った密室の中に閉じこめられた。そして、抵抗感なくその部屋から細い裂目を通って暗い海へ投げ出された。  間もなく、烈しい、痛烈と呼んでいいほどの快感。 (なにを言っているのか分らない場合は、自分の生涯をフィルムを逆回転して、受胎・射精の瞬間まで遡ってください)  粘った液体の中を、私は泳いでいる。  依然として真暗で、水の色も見えない。  まわりには、幾億匹の仲間がいて、活撥に細い尻尾を動かして、泳ぎまわっている。泳いでゆくコースが急角度に変り、まるで跳ねているようにみえる。  私は自由だ。  しかし、あまり活撥に動きたくない。  近くに、ふたたび堅い裂目が見えてくる。あの部分は、たしか薄桃色をしていたようだった。もう決して、中には入りたくない。  私の躯は、顕微鏡でしか見ることができないくらい、小さくなってしまった。勢込んで、突進している無数の仲間がいる。馬鹿なやつらだ。  でも、やつらはまだなにも知らないのだから、仕方がない。  私はもう、分った。  絶対に入らない。  万一、吸いこまれても、尻尾を振立てて活撥に突進むことだけはしたくない。怠惰に、なるべく怠惰に……。 (一九七一年)  そ の 魚  モーターボートで隅田川を遡りながら、龍子は退屈していた。会話は途絶えていたが、運転している男は満足そうな表情である。その表情が、苛立たしい。その矢田という男は中年である。 「いい齢をして……」  と、龍子は一層苛立つ。会話が途絶えたままでいることが、苦痛になってきた。  川の水は濁って、かなり臭う。メタンガスの泡も見えるような気分になる。 「きたない水ね」  龍子が話しかけた。 「かなり汚れているね。しかし、風が気持がいい」 「昔は、白魚が棲んだという話だけど」  メタンガスが滋養分になって育つ、という魚の話を聞いたことがあるが……。 「これでは、白魚はとても無理だね」  と、矢田は当り前のことを言う。 「でも……」  龍子は、その魚の話をしかかったが、ふっと厭な気がしてやめた。似た話を、してみた。 「松葉牡丹という草花があるでしょ」 「縁日の植木屋で、たくさん売っていた。夜店というものもなくなってしまったな」 「あの草のことだけど……」 「どういうこと」 「スモッグで育つのですってね、都会の真中にあったほうが、どんどん茂ってゆくのですって」 「へえ、はじめて聞いた……。凄い草だね」 「凄い、というほどでもないでしょ」 「そうだねえ……。陸へ上がって、白魚のてんぷらでも食べようか」  矢田の言葉が唐突に聞えたが、龍子はすかさず、 「そのあと、一緒にお店へ来てくださるわね」  龍子は酒場の女である。この日は、モーターボートに乗る羽目になるとはおもわなかった。夕方に会おうと男から言い出されて、曖昧な気持のまま、承諾した。  矢田は、龍子が特別の好意を持っていると信じている。一度、店にきた男たちの名刺を見ながら、龍子が矢田の会社に電話をかけて、 「お会いしたくなったの。お店へいらしてね」  といったのも、その理由の一つである。龍子は部厚く名刺を積み上げて、つぎつぎとダイヤルをまわしてゆく。遊び馴れた客のなかには、 「おや、今日は電話当番かね」  などと、からかいながら、無駄話をする男もいる。  そう言われてしまうと、龍子は苦笑するが、そんな夜、その客がひょっこり店へ顔を出したりする。つまり、電話をかけることが彼女たちの商売にとって無駄ではないわけなのだが、真正面から受止められてはいささか当惑する。中年男のいわゆる「純情」には、かなり当惑してしまう。  気分がすぐれないのでアパートで寝ていると、店から電話がかかってきた。こういうことは、ときどきある。そのときは、矢田が来ている、と電話の声は告げた。気分がすぐれない、といっても、病気ではない。店へ出れば、矢田の席の売上げのパーセンテージが、龍子のものになる。矢田は|倹《つま》しい客なので、たいした額になるわけではないが、気晴らしのつもりになって、龍子は普段着に近い恰好で店へ出た。    龍子の特別の好意を矢田に信じさせることに、これが決定的な役目を果した。  その次に店に来たとき、矢田は龍子を誘った。曖昧な気持だったが、一種の好奇心が動いた。  寝てみてもいい、というつもりだったのだが、矢田はホテルに誘わず、隅田川の河口に近い場所でモーターボートを借りた。  ボートが停って岸に上るとき、龍子はその眼で水面に湧き上ってくるメタンガスの泡を見た。  矢田は上機嫌で、約束どおりてんぷら屋で晩飯を済せ、龍子の店へ同行した。時刻は八時近くなっていたが、罰金の遅刻料は客を同道しているので払わなくて済む。平素の倍の時間、矢田は龍子の店にいて、倍の分量の酒を飲み、すこし酔った。  矢田が帰ったあと、同僚の奈美が龍子に言った。 「あんた、もの好きねえ」 「そうかしら」 「それとも、好きなの」 「違うわ、すっかり退屈しちゃった。でも、珍しいとはおもわなくて」 「それは、そうね。たしかに、珍品だわ」    矢田が帰宅したのは、十一時近くである。子供はとっくに眠っており、細君は機嫌がわるい。 「ああ、疲れた」 「そうでしょうね」  |棘《とげ》のある声が戻ってくる。それ以上会話はせず、矢田は酔いにまかせて、そそくさと寝床へ入った。  夢を見た。  夢の中で、矢田は機嫌よくモーターボートのハンドルを握っている。濁った水が、白く左右に割れる。  夢の中で、臭気を感じた。これは珍しい現象だが、矢田自身にはそれが夢であるという意識はない。水面にはメタンガスの泡が、ふつふつと湧き上っているところもあるのだろうが、ボートの航跡に混って見分けがつかない。  不意に、左手の水の上に、大きな魚を見た。ボートに沿って、勢よく泳いでくる。 「こんな水に、あんなに大きな魚が……」  驚いて、矢田はその魚を眺めた。魚は大きく|胸鰭《むなびれ》を、右、左、と動かして、ボートの速力に負けない速さで泳ぐ。右、左、と動く鰭が、まるで抜手を切って泳いでいるようにみえたとき、魚の頭が水面高く持上り、矢田のほうを向いた。  魚の顔は、龍子そっくりである。その顔の表情が崩れて、|艶《なま》めかしい笑いになった。 「ああ、龍子がいる……」  そのときにもまだ、矢田は夢から醒めない。軽い浮揚感に似た上機嫌がつづいている。 (一九六七年)  廃墟の眺め     一  戦争が終ってしばらくは、街全体が大きな廃墟だった。やがて、新しいビルや家屋が建ちはじめた。緑色の生垣の傍を歩いていると、ピアノの音が聞えてきたりするようになった。そういう住宅地のあいだの狭い路を歩いて行くと、不意に視野がひらけて、廃墟の|一劃《いつかく》に出会ったりした。  そういうときには、私はしばらく立止って、その風景を眺める。散らばった|瓦礫《がれき》のあいだから覗いている土は、特別の色合をしていた。錆びた鉄の粉を撒きちらして、高熱で焼き上げたような色、とでもいおうか。どこか金属的な感触があった。その地面を突破って生い茂っている雑草は、人間の丈くらいある。  廃墟を照らす夕日の色は、ことさら赤いように、私にはおもわれた。廃墟の眺めは、美しかった。立止って眺めていると、戦争で死んだ友人知人たちのことが思い出されてくる。そして、生き残っている自分を感じるのだが、それは生命の充実感というようなものではなく、稀薄な空気のなかに茫然と佇んでいるような心持である。その感情はとりとめないくせに淡いものではなく、ひりひりするように強く烈しい。     二  その頃、都心の駅の近くで、偶然花野美枝子を見かけた。私は会社が終って帰宅しようとしていた。 「花野さん」  私はその姓で呼んだ。ある会合で幾回か会ったことがあるが、親しい仲ではない。それに、花野美枝子は美人である。整った顔立ちだが、眼の光が優しいので、冷たい感じはしない。可憐な眼とは違う。優美さと現代的な機智とが混り合っているような光である。  私は、花野美枝子に気おくれを感じていた。 「あら」  その顔に笑いが浮ぶと同時に、彼女の声が聞えてきた。 「L──というお店、どこにあるか知っているかしら」  L──は高級料理店である。そこで、会合がある、と彼女は言う。私には縁のない会合である。 「だいたいの見当は付いているが……、よく聞く名前だな」 「そう、よく聞くのだけど、はっきりした場所が分らないの」 「分るとおもう。その店の入口まで送ってあげるよ」  私たちは、歩き出した。駅の裏手のビル街を探して歩いたが、見付からない。これと見当をつけておいた街角を曲ってみるのだが、L──は見当らなかった。  見付からないほうがいいとおもいながら、私は歩いている。だから、その店の在り場所を訊ねてみることはしない。花野美枝子も、訊ねてみようとはしない。  三十分ほど、歩きまわった。ときどき、首をまわして、傍の彼女の様子をうかがう。そこには美しい横顔がある。一緒に歩いていることだけで、愉しい。それ以上の野心は起らない。この時間がもっと続けばよい、とおもったとき、彼女が言った。 「どうしても出なくてはいけない会合というわけじゃないのだけど……」 「それなら、もう探すのは、やめようよ」 「そうね、もうやめたわ」 「それでどうする」 「もう帰るわ」  私の降りる駅から五つほど向うに、彼女の下車駅があることが分った。 「途中まで、一緒に帰ろう」  と、私は言った。  満員の電車に乗った。目の前に、彼女の顔がある。ときどき|躯《からだ》が触れ合う。ようやく、私は誘う言葉を口に出すことができた。 「酒でも飲みに行こうか」 「そうね、それもいいわね」  私は財布の中の金を暗算する。時折でかけるおでん屋の赤提灯を思い浮べる。国電を降り、都電に乗る。都電を降りて十分ほど歩く。そして、ようやくおでん屋にたどり着く。  かなり長い距離を歩くわけだ。しかし、歩くことは、苦痛ではない。むしろ、躯の底のほうから衝き上げてくるものに唆されて、歩いて行く。しかし、花野美枝子が私と同じに感じているかどうか、分らない。 「もうすぐです、あと百メートルぐらい」  と、私は言った。     三  酔いがまわると、私は大胆になった。  花野美枝子が、一層美しく見えている。もしも私が独身ならば、一緒に暮したいとおもったろう。  しかし、二十代の半ばなのに、私はすでに結婚していた。  花野美枝子と一緒に歩きたい、とおもった。大胆になっている。店を出たとき、私は言った。 「国電の駅まで、歩いてしまおうか」 「ええ」  また、歩き出す。歩き通しのような気分がする。どこまででも歩いて行きたいが、三十分もすれば駅に着いてしまうだろう。  道の両側には、いたるところに廃墟がある。私たちは、歩いて行く。  歩きながら、私たちはとりとめのない会話を取りかわしていた。つぎつぎと私たちの左右に現れてくる廃墟のあいだの道を歩いているうちに、ふと私は、数日前に聞いた話を思い出した。  その話を彼女に話してみた。  焼けた小さなビルの一室を使って営業している料理店があった。外観は、焼けビルのままである。崩れたコンクリートの壁面からは、|赤錆《あかさ》びた鉄骨が覗いている。その一室に、床板を張り、壁を塗って、部屋をこしらえたわけだ。メンチボールとコーヒーだけを売っていた。メンチボールの味が評判で、店は繁昌していた。  ある日の深夜、その店の常連の一人が、酔って店の中に忍び込んだ。目的のある行動ではない。悪酒の酔いと廃墟は似合う。瓦礫の地面をさまよっているうちに、|悪戯《いたずら》ごころで窓ガラスを割り、錠をはずして忍び込んだ。  店の中は、無人である。平素旨いものを食わしてくれる店の中を、懐しいような心持で歩きまわっているうちに、調理場へ出た。  何気なく、窓から外を覗いてみた。狭い裏庭があった。コンクリートの塀と、ビルの壁面に|遮《さえぎ》られて、その裏庭は外部からは見ることができない。裏庭があることさえ、その男はそれまでは知らなかった。  満月の夜で、月の光はその狭い庭を隈なく照らしている。その地面の上に、堆く積み上げられているものを、彼は見た。  猫の首である。その堆積は、無数の猫の首でできていて、底辺に近いところの首は白骨化がはじまっていた。 「つまり、平和な時代がはじまっているということだな」  話し終って、私がそういうと、花野美枝子は|怪訝《けげん》な顔で、 「どういうことかしら」 「焼け跡に猫の首がころがっていたことや、猫の肉を食わせたことが、話題になる時代がきたということですよ。これが何年か前だったら、誰もおどろきはしなかったもの。たとえ、焼け跡に人間が転がっていても……」 「人間が転がって……」  小さな声で、彼女は私の言葉のその部分だけ、なぞった。  私たちの行手に、また廃墟が現れてきた。コンクリートの塀が崩れて、瓦礫の地面を月の光が照らしている。不意に、衝き上げてくるものがあった。花野美枝子の腕を掴み、塀の裂目へ向って引張った。  その躯が硬くなった。抵抗するわけではない。硬くなった躯を抱えるようにして、私は廃墟の中に入った。  花野美枝子は、独身である。しかし、立居振舞に余裕があった。向い合っていると、彼女が若い人妻であり、私が年下の男のようにおもえるときがあった。  そういう彼女の躯が硬くなったのは、意外だった。軽くたしなめるか、やわらかく躯を崩してくるか、どちらかだとおもっていた。  唇を合せてしばらくすると、彼女の躯の|強張《こわば》りがいくぶん弛み、受容れる形になった。長い接吻が終ると、彼女の躯がゆっくり熔けてゆくのが分った。 「抱きたい」  と、その耳もとで、私が言う。  花野美枝子の眼が、廃墟の面を撫でた。不意に、その躯が硬直した。 「ここでは、厭」 「それでは、旅館へ行こう」  私の腕の輪の中で、彼女が迷っているのが分った。長い間、迷っている。ようやく、分別が戻ってきて、私は言った。 「それとも、やめておくか」 「…………」  返事がなくて、迷っている気配がつづく。私は心を固め、彼女を|攫《さら》ってゆく行動を起しかけたとき、 「やっぱり、やめておくわ」  と、彼女が言った。  道に戻って、歩き出した。二人のあいだにぎごちなさはなかった。こうやって歩いていたかっただけなのだ、と私はおもいながら、駅へ向った。 「今夜は、愉しかったわ」  と花野美枝子が言った。皮肉な口調ではない。  やがて、駅の建物の前に来た。その駅から私の家は遠くはない。 「ぼくは、歩いて帰る」 「とても愉しかったわ」  もう一度そう言うと、花野美枝子は改札口へ向って歩いて行く。私は立止って、そのうしろ姿を見送っていた。  花野美枝子の躯が、左右に揺れる。ハイヒールの上の足が、重たそうだ。 「酔っているな」  とおもいながら、見送っている。彼女は改札口を通り抜け、そのうしろ姿がいくぶん小さくなったところで、足のほうから少しずつ消えてゆく。階段を降りはじめたのだ。脚が消えたところで、彼女は立止った。  振返るのかとおもったが、違った。彼女は一度も振返らない。やがて腰が消えてゆき、胴が消え、一瞬頭だけになり、その頭もすっと消えた。     四  その夜のことは、良い記憶となって私の中に残った。私は花野美枝子に会うことを、試みなかった。彼女の友人には、仕事の関係で時折会うことがあったが、花野美枝子について訊ねることもしなかった。  一年経ったとき、私は彼女の友人に訊ねてみた。 「花野さんというひとがいたね。きれいな人だったな、もう結婚したかな」 「あの人ねえ……」  彼女は、顔を曇らせて、 「脚を悪くして、ずっと家に籠っているわ」 「脚が……」 「子供の頃、庭の木に登っていて、落ちて、怪我したのですって。そのところが、また悪くなったとか言うのだけど」  一年前の夜、私は花野美枝子と一緒に、ずいぶん長い距離を歩いた。それが、再発の原因になったのだろうか。それにしても、彼女は脚が悪いということを一言も言わなかった。なぜ言わなかったのだろう。別れるとき見送ったうしろ姿は、足が重そうだったが、片足を曳きずってはいなかった。 「見舞に行かなくてはいけないな」  おもわず私が言うと、彼女は、 「お見舞に」  と、ふしぎそうな顔で、私を見た。見舞に行くほどの関係ではない筈だが、とおもっていることが分った。  私が黙っていると、 「それが、美枝子さん、人に会いたがらないの。なんだか人嫌いになってしまったみたいで、近寄れないの」 「脚が悪くなったせいで」 「そうなのでしょう」 「しかし、脚が悪いくらいで、なぜそんなになるのだろう」  彼女は答えない。隠していることがあるわけではなさそうだった。彼女自身、戸惑っているようだ。     五  それから十五年が経った。  昔の記憶が、不意に浮び上り、それがまったく別の照明の中に置かれることが、時折起る。当時、見落していた解釈の鍵が、突然目の前に置かれる。なぜ、その鍵が見えなかったのか、ふしぎにおもえることが多い。  新しい解釈が浮び、それが真実のようにおもえる。しかし、確かめる方法はない……。  ある夜、私は小さなスタンドバーにいた。一人で酒を飲んでいた。扉が勢よく押開けられて、三人連れの客が賑かに入ってきた。男二人に女一人である。三人とも若い。  女はしたたかに酔っていて、 「わたしはスワンだわ」  と言うと、曲げた両腕を左右に拡げ、|羽搏《はばた》く真似をしてみせた。そして、椅子から|擦《ず》り落ちると、床の上に坐ってしまった。  男たちが左右から腕を把って、女の躯を椅子に戻す。会話がはじまる。聞き耳を立ててみたが、省略の多い内輪話なのか、意味が分らない。やがてまた、女が椅子から擦り落ちて床にぺたりと坐った。背の高い椅子なのに、転がり落ちはしない。丸い椅子の縁に背中をこすり付けるようにして、ずるずると滑り落ちる。 「脚が痛くなってきたわ」  床に坐ったまま女は言い、 「もう帰りたいわ」  二人の男は、左右から女を支えるようにして、店を出て行く。女は片足を曳きずっている。 「痛い、痛い」  女は叫びつづけるが、笑っているような声である。そして、三人の姿が戸外に消えた。 「どういう女かね」  私はバーテンに訊ねた。 「お金持の娘さんらしいです。ときどきおみえです」 「いつもあんな具合なのかな」 「そうですね、にぎやかなかたで」 「しかし、ちょっと変っているね」  隣の客が、私の言葉を受けて、 「すこし頭にきているらしいな」 「かなり酔っていたからね、酒が頭にきたというわけか」  と私がいうと、隣の男は含み笑いをしながら、 「酒ばかりじゃないな。膝の関節にくるというのは、これは物騒でね」  僅かの間を置いて、私はその言葉の意味を理解した。|悪疾《あくしつ》が脚の関節を痛め、頭を狂わせることがある、と彼は言っているわけだ。 「まさか、あんな若い女が」  と、私は笑い出しかけて、不意に、花野美枝子を思い出した。  脚が悪いくらいで……、と十五年前に私はおもったのだが、彼女は本当に庭の木から落ちたのだろうか。  花野美枝子が満州からの引揚者だということも、私は思い出した。その土地でおこなわれたという無数の集団暴行のことも……。  私の頭の中に、一つの光景が拡がりはじめた。  沢山の大男に犯されたあとの花野美枝子は、仰向けに倒れている。頭が深くうしろに落ち、片脚をかるく折り曲げている。水の中から、両腕でかかえ上げた溺死体のようだ。  その背景に、廃墟が重なる。  見渡すかぎり廃墟の中で、花野美枝子の青白い裸体は、花のようだ。その眺めは、むしろ美しい。その裸体には、生きている人間のなまなましさは感じられない。花野美枝子に会ってから、十六年が過ぎている。瓦礫の地面は、錆びた鉄の粉を撒きちらして、高熱で焼き上げたような色である。その色が視界一面に塗られ、その上に小さく花野美枝子の青白い裸体がある。それは風景の一部分として、私の眼に映っている。 「焼け跡に人間が転がっていても……」  その言葉を思い出し、私は呟く。  もしも、十六年前にその考えが浮んだとしたら……。その風景の中にある花野美枝子の裸の躯は、私のなかにどういう感情を惹き起していただろうか。  私は十六年の昔を、|透《すか》し見るように振返ってみる。しかし、花野美枝子の裸体は、青白く、小さく、どうしても近寄ってこようとはしない。 (一九六七年)   ㈼  蕎 麦 屋  街を歩いていて、突然カレーそばが食べたくなった。夕食には早い時刻で、あたりはまだ明るい。  近くに、蕎麦屋の紺の暖簾が見えて、いくぶん凝った店構えである。歩み寄って、暖簾の文字を見ると、 『長寿庵』  と白く染め抜かれている。  躇らう気持が起った。長寿庵だから、後込みしたわけではない。その名はポピュラーな蕎麦屋の代名詞といってもいいくらいで、都内だけでもずいぶんな数があるだろう。  それらの店は、おそらく姉妹店でもチェーン店でもないのだろうが、どの店もいかにも街の蕎麦屋といった味がする。安心できるだけでなく、その日の気分によっては有名店の品のいい味が疎ましくて、たとえば「鍋焼きうどんは長寿庵にかぎる」とおもったりする。  その店の前で躇らったのは、店構えの瀟洒さと屋号とのアンバランスのためである。入口の格子戸にしても、もっと無骨な太い格子のものであってほしい。  飾窓があるので覗いてみて、ますます辟易した。鮮かな緑をしたもり蕎麦の蝋細工が置いてあって、とても食物の色ではない。横に置かれた紙片には、『当店自慢の茶そば』と書いてある。  しばらく迷ったが、やはりカレーそばが食べたい。なにか食べたいと思い詰める気持になったのは久しぶりで、そのことも珍しい。  あらためて、入口の戸の前に立った。左右に開く筈の格子戸はそのままになっているので、ガラス越しに店内を覗いてみると、人影がない。  引返そうとしたとき、女が一人入口に近寄ってきて、横に立った。近所の主婦が買物のついでに、という感じの三十半ばにみえる女である。 「まだ、準備中らしいですよ」  そう、声をかけた。  女はチラと顔を向けたが、そのまま格子戸に手をかけて引くと、あっけなく開いた。自動ドアではなかったのに、そうきめてしまって格子戸と向い合って凝っとしていたことになる。  店先を離れたが、カレーそばにたいする執着は消えない。戻ることにして、今度は戸を手で開いた。  入ってすぐ右に女は腰かけており、ほかに客は一人もいない。 「自動ドアだとおもった」  と、半ば女に話しかけるように呟きながら、女の前を擦り抜けた。女はすこし笑ったようだ。  女からなるべく離れ、顔が合わないように同じ側に腰かけた。狭い店なのでそんなに離れていないが、視野から女は消えた。「これまでの経緯はなかったことにして、あらためてカレーそばに熱心になろう」とおもった。  タバコにゆっくり火をつけたとき、盆の上に茶碗を二つ載せて、眼の前を女店員が通り過ぎてゆく。まず、女の前に茶碗を置いた。 「カレーそばを頂戴」  女の声が聞えた。前からきめている、迷いのない声音である。 「はい、カレーそばですね」  復唱した女店員は、歩み寄ってきてテーブルに茶碗を置くと、注文を促す素振りである。ここで、「ざる一枚」とでも言うことができれば、問題はない。しかし、胃の腑はすべて「カレーそば」に向ってその態勢をととのえてしまっている。困ったが、仕方がない。近くにいる女の耳が気になりながら、 「カレーそば」  と、言った。  昔、恋愛小説を書いた。運転する男の横に女が座り、そのスラックスが濡れてくる。  そのことに気づいた男が、 「おや、おめえションベンしたな」  と、わざと無頼に言う。  そういう口調を使うことで、女の羞恥を救おうとする。その気持を受け止めた女と、その男との間に動くものがあって、それがキッカケになる。  カレーそばが発端となる恋愛小説を書いてみても、面白いかもしれない。  やがて、女店員はカレーそばの丼を二つ、盆に載せて奥からあらわれた。そのカレーそばは、長寿庵の味でなかなか旨かった。「カレー南蛮」には葱と鶏肉が入っており、「カレーそば」は豚肉だけなのである。  ある日、ある有名そば屋の入れ込み座敷に胡坐をかいて、焼海苔と板わさを肴に一人で酒を飲んでいた。  偶然、年下の友人が少女を連れて入ってきて、傍に座った。姪だというその少女は、運ばれてきたざるそばを見て、不満気である。 「どうして、海苔がかかっていないの」 「どうしてでしょう」  と、友人がたずねてきた。 「この店では、ざるには海苔をかけないんだ」 「でも、ざるのほうがタカいですよ」 「そういうことになっているのだ」  この店では、蕎麦の実の外皮を取り除いた芯だけでつくったのが「ざる」で、外皮のまま挽いた粉を使ったのが「もり」である。外皮を取り去る手間と、蕎麦の実の分量が少なくなるだけ、「ざる」のほうの値段が高くなる。どちらを選ぶかは客の好みで、「もり」のほうでないと満足できないという人物もいる。海苔は蕎麦の香りをそこねる、といって使わないのだが……。そういうことをここで説明しては、聞き苦しいことになるだろう。 「それじゃ、海苔のかかったそばを食うには、どうしたらいいのですか」 「うーん」  と、肴にしている焼海苔に眼が向いた。  これを少女に渡して、こまかくして振りかけさせれば、問題は解決する。蕎麦の香りといったって、微かなものだ。それを犠牲にして海苔の味のほうを選ぶ、という考えだってあってもいいわけだ。  しかしべつの有名店で、「海苔をかけてくれ」と言った客が、「うちにはそんなものはありません」と店の女に叱られていた。この蕎麦屋ではどうだろうか。 「海苔のかかったそばは、たしかにざるそばと言うがなあ……」  友人はここで気が付いて、 「つまり、それは、長寿庵とか……」 「そうそう、長寿庵とかで」  一件落着したものの、「長寿庵」に申し訳ない気分が残った。 (一九八六年)  昭和二十年の銀座  戦前の銀座の大通りには、その中央に市街電車のレールがあって、当然電車が走っていた。両側の歩道には柳が植えられて、露店が並んでいた。  いまの銀座は、大通りの歩道を早足で歩いてゆくことができる。当時はそんなことはできず、前の人の背中がすぐ目の前にあって、ゆっくり動いてゆく状態だった。とくに、西側(小松ストア側)の雑踏ははげしく、東側はいくぶん余裕があった。つまり、銀座のメインは西にあったことになる。  そして、人々は「銀ぶら」と称してその雑踏をたのしんでいた。最近、戦後生れの人と話していて、「銀ぶら」という言葉をまったく違った意味に理解しているのに驚いた。金のない連中が、やむなくぶらぶらしていることだ、とおもっていたようだ。 「銀ぶら」は、厳密にいえば銀座四丁目(昔はここの町名は六丁目で、尾張町と呼んだ)から、新橋の千疋屋あたりまでの西側の歩道をぶらぶらすることであった。  東京の人口は今よりはるかに少なく、銀座に出てくる人たちは限られていたから、しばしば知人に会う。これも愉しみの一つだった。そして、「銀ぶら」の香辛料は、柳の並木と露店であって、この二つがなくなるとともに消えていった。  銀座の柳が切られたのは、いつだったか。露店は昭和二十六年の「露店撤去案」にもとづいて、その年末になくなった。  昭和二十年八月十五日が、敗戦の日である。そのあと間もなく、空襲であちこち焼けていた銀座も活気を取戻してきた。変化といえば、スーブニール・ショップ風の露店が沢山出現したことである。アメリカ兵は金を持っていたが、日本人はみんな貧乏になっていた。服部時計店(和光)はPXとなり、そこの交叉点ではGIがハデな身振りで交通整理をして、珍しがられていた。その一人に、ハリウッド・スタアのタイロン・パワーがいて話題になった。  その頃、銀座の露店でカメラのフイルムを買ったことがある。私は家を焼かれてほとんど無一文だったし、そのフイルムは安くはなかった。下宿住いで、引越しのときの荷物は布団も含めて小さなリヤカーに半分くらいしかなかった。もちろん、カメラもなかった。  それなのに、なぜそんなものを買ったのか。ここのところが、今となると朧げである。戦中・戦後、明るい色の小さな箱に入ったフイルムを長いあいだ見ることがなかった。それが、歩道の上に敷かれたゴザの上にあったときには、ひどく新鮮に眼に映ったのだろう。平和がきた、という気持を噛みしめるために、前後の考えなく買ってしまったのだろう。  それを持って帰ってきて、 「それにしても、このフイルム、すこし安いような気がする」  と、おもった。  安い、といっても、私のフトコロはかなりのダメージを受けていたのだが、当時の貴重品にしては安い、という意味である。 「はてな」  そのときすでに予感があった。  箱から出してみると、はたしてフイルムは使用済の状態になっていた。  最近、その話を野坂昭如にした。彼はすかさず、言った。 「それ、現像してみましたか」  私としては、そんなことは考えもしなかった。仮に考えたとしても、当時フイルムを現像してもらうのは不可能だったろう。  今おもえば、現像してみたら何が出てきたか興味がある。しかし、当時は買ったというだけで、私の気持は完結してしまった。 (一九八五年)  新宿・尖端の街  先日、久しぶりに新宿のコマ劇場界隈へ行って、あまりにネオンの光が強く、多彩に重なり合っているので、驚いた。ラスベガスのダウンタウンに、建物の外側全部がネオンサインでおおわれている店があるが、それを上まわる明るさである。こういう地区は、東京ではほかにはない。ゲーム・センターの内側を取り出して拡大したようで、それを見て「やはり新宿には、都会風俗の最尖端がある。それはいつの時代においても、そうだった」とおもった。  尖端をつくるには、エネルギーがいるし、議論もいる。そのためには、ゴールデン街というのがあって、毎夜、議論とエネルギーで充満している。まるで、そのためにゴールデン街は存在しているようだ。因みにこの地帯は、昭和三十三年の赤線廃止のときまでは、花園町という青線地帯であった。青線は赤線とちがい、暴力団が女に薬を使って中毒者に仕立て、管理売春をおこなっているところが多かった。ある意味では、これも時代の尖端風俗ともいえる。  ゴールデン街にかぎらず、新宿の酒場は議論と荒々しいエネルギーに満ちており、私はとてもつき合い切れないので、四十半ばになったころから御無沙汰している。その点、銀座は私にとっては休息の街であり、酒場で飲んでいて議論をふっかけられることがないのはもちろん、未知の人から話しかけられることもない。  そういう視点で思い返してみると、戦前から新宿は一つの流行の尖端をつくる街であったといえる。昔は、新宿は東京のカルティエ・ラタン(学生区)なんて言葉もあって、大学生はいまの十分の一の数しかいなかったから、それが特色になりえた。いまでは、大学生はうようよいるから、「学生区」なんていっても仕方がない。しかし、若者の街という伝統は今でも残っているようだ。  おもえば、昭和初年ころには、新鮮な感じを与えるものが、じつに沢山あって、ちょっと外国風であればモダンでフレッシュ、すなわち尖端的ということになってしまう。「ジャズで踊ってリキュールで更けて」とか「いっそ小田急で逃げましょか」という流行歌があって、ジャズもダンスもリキュールも「小田急」まで尖端的だった。冗談ではなく、私鉄というのはなにかモダンで、その行先が小田原となると、ますます新鮮、その小田急で箱根あたりに|しけこむ《ヽヽヽヽ》となると、もう尖端の極致になってしまう。  中村屋のカレーライス(ふつうの店の十倍くらいの値段)も尖端、高野のフルーツパーラーというのはその言葉のひびきからして尖端、赤い風車のついた劇場「ムーラン・ルージュ」でヴァラエティショウを観て、紀伊國屋書店で本を眺めたりすれば、もう堂々たる都会人であったわけだ。  この尖端は、戦後もつづく。焼野原にまず尾津組マーケットができたのが新宿で、やがてハモニカ横丁などカストリ焼酎を飲ませる屋台ができて、そこには議論とエネルギーが充満した。ヒッピー風俗が風月堂を中心に起り、アングラの教祖寺山修司が「青年よ家出して書を捨て田舎訛りを捨てるな」と言い、唐十郎が花園神社の境内で赤テントを張り、旧新宿二丁目のバー「ナジャ」ではアートディレクター、イラストレーターと、耳慣れない職業の人たちがたむろして議論し……、という具合だった。  ところで私は若いころから議論が嫌いだから、駅前のおでん屋「五十鈴」の地下のバー「和」とか、区役所通りの「とと」とか、どこかおっとりしたところのある場所に毎夜出没し(その前には、二丁目の赤線に)ていたが、赤線もそれらの店もみんななくなってしまった。その三つがまだ在る頃、昭和三十年前後には、新宿コマのあたりで何度も路上殺人が起り、あのあたりはこわい、という声が高かったが、毎夜徘徊している身としてはなんの危険も感じなかった。街に馴染むと、そういう気分になるものらしい。  そして……、久しぶりにコマ劇場界隈の明るさにびっくりしている私は、まるで初めて上京して盛り場に出かけたような有様で、「あれだけ馴染んできた街なのに」と、苦笑した。 (一九八一年)  踊 り 子     一  この一月初旬のある日、長い長いご無沙汰をしていた日劇の五階へ向って、有楽町を歩いていた。間もなく取り|毀《こわ》される日本劇場にあるミュージック・ホールが目的地で、午後二時三十分開演の第一回目に間に合うようにすこし足をはやめた。  大きな建物の横手にある細長い入口のあたりの様子は元のままで、階段をほんの幾つか上った奥に切符売場がある。その窓口で切符を一枚買い、エレベーターを使って五階のホールに入ってみると、客席は満員で指定席のほうには空席があった。いそいでホールの入口に引返し、金を足して「お|直《なお》り」を頼み、ついでに五百円出して、プログラムを買った。  ところで、エレベーターのことだが、これが昔のままのもので、係の青年がレバーを握って運転している。その足もとに、まるくて小さい電熱器が置いてあったことも、なかなか趣があった。「定員九名」という古ぼけた札が|貼《は》ってある。時代が、逆行する。ここは、昭和二十一年七月に開場になったときには「日劇小劇場」という名だった。二十七年に「ミュージック・ホール」と改名されるのだが、これは名称が変っただけではなく、踊りの内容が変った。それまでの踊りは「ストリップ・ティーズ」であって、「ティーズ」すなわち「|焦《じ》らす」という意味のとおり、一枚一枚手間をかけて踊りながら脱いでゆく。最後の一枚も脱いでバタフライとスパンコールだけの全裸になる直前の身振りは思い入れたっぷりで、客のほうも十分に煽情されて熱心に見詰めていた。当時はそうであった。現在は、そんな身振りを時間をかけてしても、退屈なだけであるが。 「ミュージック・ホール」と改名したのと同時に、踊り子はいきなり裸で舞台に登場するようになった。ただし、「ティーズ」が退屈だという理由ではない。時代はまだ昭和二十年代後半で、「それは煽情的すぎる、いきなり全裸で登場のほうが、美的である」という趣旨であった。  私の記憶は甚だ怪しいが、改名したあと数年経って改装があったようにおもう。五階の入口を抜けて廊下を左へ歩くと、スタンドバーの設備ができて、それにつづくロビイに椅子が置かれたりした。そのとき、改装記念の招待があった。その頃は、私は小説家として生計を立てるようになっていた。  当時、私たち小説家はおおむね無頼であって、ストリップ見物などは日常的な事柄であったが、一般市民にとってはかなりの冒険であったようだ。その招待日に出かけてゆくと、エレベーターの前に群れていた人たちの中から、顔見知りの大学助教授が飛び出してきて、私の肩を抱くようにして笑顔で挨拶した。浅いつき合いにしては、その親愛ぶりが異常だったが、あとで考えると彼はうしろめたい気分でいたとき知り合いを見つけて安堵した、ということらしい。その後は、「はとバス」の観光コースにこの場所が入れられるようになったのだが。  エレベーターの定員はずっと九名だったとおもえる。小野|佐世男《させお》(この稿では、すべて敬称略)が階段で五階まで上り、心筋梗塞で倒れてそれが死につながったのも、その頃だった。小野耕世は佐世男の子息だが、漫画家・小野佐世男の名を知らぬ人も多いだろう。現在、小島功が豊満で官能的な美女の絵を描いて有名だが、さらに豊満さらにエロチックな絵を描いて一世を風靡した小野佐世男が「ミュージック・ホール」の五階で|斃《たお》れたことは、名優が舞台で斃れたのと同じ感銘を与えたものだ。新聞は、社会面のトップに大きくその死を報道した。  ところで、満員のため五階の入口に引返して、「お直り」を頼んだ成行きに戻ると、係員は傍のインターホーンの|釦《ボタン》を押して、切符売場と話し合っている。当時は、こういう文明の利器はなかった。コピイの器械もテープレコーダーもなかった。いまの舞台の音楽はテープだが、昔はオーケストラ・ボックスがあったかどうか、記憶が朧げである。  係員は、私のほうを向いて、 「ちょっと待ってください。大丈夫、席はありますよ」  と、親切である。  間もなく、切符が手に入った。係員に案内されてゆくと、舞台では踊り子たちが十数人横一列に並んで踊っている。乳房だけ露出している白い衣裳だが、その白が照明に映え、並んで揺れている二十幾つの乳房とのコントラストがきれいである。  座席からずり落ちそうなかたちで、頭を低くして坐り(これが、うしろの客へのエチケットである、すくなくとも昔は)、舞台を見た。昔に比べて、はるかに露出度が少ない。どういう形で隠せば、露出している部分が強調されるか、というほうに演出家の考えが向いている。  乳房だけは、つねに露わになっている。つぎつぎと出てくるいろいろの乳房を見ているうち、なにか気になることが、私の頭で動いた。これまでに、数え切れないほど日劇五階へは来たし、浅草のフランス座やロック座その他へも行ったが、そのときとはどこか違う乳房がそこにある。それがなにか、どうも分らない。  そのうち、コントがはじまった。踊りの合間にはさまるコントはなかなか面白い。後年名をあげた沢山のコメディアンたちが、昭和二十年代にストリップ小屋のコントから巣立っていった。トニー谷のデビューも、私はここで見た。アメリカGIを|揶揄《やゆ》するコントで、トニー谷はまことに颯爽としていた。まだほとんど無名だった江利チエミのテネシー・ワルツも、ここで聴いた。江利チエミは白い網の帽子をかぶり、素晴しく可愛かった。  この日のコントには、内藤陳が出ている。水をひっかけ合うギャグのあとで、 「サヨナラ公演の舞台で、踊り子さんが水に滑ってころぶといけない。雑巾がけをしようや」  と、内藤陳は言い、 「こんなコントをやったのは、はじめてだ」  そうボヤキながら、ほかの二人の男と一緒に、四ん這いになって舞台を拭った。客席の一隅から、拍手が起った。  やがて舞台に、松永てるほが出てきた。その裸を見たのは十五年ほど前だ。  ……昨年の春、ある会合で偶然、松永てるほに会った。十年ぶりくらいだろう。彼女は周囲に聞える声で、 「わたしを裸にしたのは、この人よ」  と言った。 「それ、どういう意味」  心当りがないので、たずねてみた。 「わたしがミュージック・ホールで、セミ・ヌードで踊っていると言ったら、あそこでセミ・ヌードなんて中途半端でよくない、ヌードになっちゃったほうが、ずっときれいだよ、と言ったのよ。それで、脱ぐ決心をしたの」  彼女はそう言った。 「しかしね、きみと初めて会ったのは、週刊誌の対談でだよ。そのときは、もう、ミュージック・ホールで売出し中のスターだったじゃないか」 「その前に、会っているの。丸尾長顕先生に紹介されて」  なるほど、そういうことがあったな、と思い出した。 「丸尾先生が、これがセクシー・ファイブのリーダーの松永てるほ、て紹介してくれたの」 「そのセクシー・ファイブというのが、セミ・ヌードだったんだね」 「そう、わたしも悩んでいたし。丁度そういうときに言われたもので」  つまり、私の言葉が決心をかためる一つの要素になったことは確かであるらしいが、「裸にした」わけではない。戦後二十年経っていたその時期でも、そういうときには女は悩むし、その事情は現在でもほぼ同じであろう。世の中にヌードは|氾濫《はんらん》しているが、そのすべての女が、あっけらかんと裸になっているわけでもあるまい……。  いま舞台で動いている松永てるほの裸は、十五年の歳月の過ぎていることが嘘としかおもえないほど、きれいだ。  その|乳暈《にゆううん》もきわめて小さい。 「あ、そうか」  さっき頭の中で動いたものの正体が、分ってきた。乳首をおおう金属片、つまりスパンコールのない舞台を、この劇場で観るのは初めてなのである。そして、どの踊り子も、揃って小さい乳暈をもっている。  あらためて、つぎつぎと移り変る舞台に登場する踊り子たちを確かめてみた。二十数人のうちの二人だけが、やや大き目な乳暈を持っていた。しかし、牛の乳首を連想させるものは、皆無だった。 「これは、どういうわけだろう」  と、考えてみたが、答は出てこない。     二  二時間が経ち、フィナーレになった。出演者のスター・クラスは舞台が客席に突出している部分(デベソという)に集ってくる。  長年のご無沙汰のために、知っている顔は松永てるほ一人である。男性出演者では、銀座の小さいバーでときどき会うので、内藤陳を知っている。  それにしても、スターはいても、トップスターの貫禄のあるのは、松永てるほだけである。ほかには、おまけして浅茅けいこくらいか。今は、裸になって金が稼げる仕事がたくさんある。ロマンポルノの女優、ヌードモデル、いずれも踊り子より高い金を稼いでいる。「役者馬鹿」という言葉があるが、「踊り子馬鹿」とでもいった、舞台で踊ることが好きでたまらない女でなくては、つとまらない仕事なのだろうか。  そんなことを考えているとき、突出舞台で円陣を組んでいる踊り子やコメディアンが、客席へテープを投げはじめた。このときには、スポットライトが集中しているので、舞台から客席は見えないのだが、たまたま内藤陳の投げた水色のテープが私の胸のところに飛んできた。端を掴んで引張ってみると、反射的に内藤陳も引張り返し、そのまま舞台の奥へ去って行った。不意におもい立って、この日に日劇五階に出かけたので、彼は私が客席にいることを知らない。  間もなく幕が下り、客席が明るくなった。外へ出る前に、しばらく廊下でぶらぶらしていた。昔どおりのバーやロビイが、古びた姿でそこにある。  一つだけ、初めて見るものが廊下の壁に沿って置かれていた。スロット・マシンの器械の形に似て、極端に古ぼけて表面が茶色く錆でおおわれている物である。ナヒーモフ号の船底から引揚げてきたような蒼古とした物体だ。よく見ると、百円硬貨を入れる孔と、覗き口がある。「未成年者おことわり」という字のある金属プレートが貼りついているが、これはどういうわけか。洒落なのか。そのプレートも本体と同じくらい古びているから、そういう骨董品風の器械をどこかから持ち込んできたのだろう。硬貨を一枚入れて、覗いてみる。奥のほうでカラーのフィルムがチラチラ動いているが、ここの舞台を撮影したものだ。これは、いま本ものを見たばかりだ。なにか呆れた気分で、その場を離れた。その残りをアメリカ人が覗き込んでいる。  このころには、今の回の観客はすでに立去っていたので、一階まで手動式エレベーターに乗り、夕方の街へ出た。     三  日劇の建物が有楽町にできたのは戦前で、当時としては途方もなく大きく見えた。いま調べてみると、昭和八年十二月に映画館としてオープンしたが、経営不振で翌年夏に閉館になった。そこで東宝が買い取り(それまでは、日本映画劇場株式会社というところの所有物だった)、「陸の竜宮」というキャッチフレーズで昭和十年春に再出発した、という。  そう言われてみると、東京育ちの私は、そのあたりの経緯をおぼろげに思い出してきた。昭和十年といえば私は小学六年生であったが、その後にエノケンの孫悟空を観た記憶がある。超満員で、最上階にしか席がなく、|摺鉢《すりばち》の底のようなところにみえる舞台の上で動いているエノケンを熱心に見た。  日劇というと、いまでも語り草になっているのは、李香蘭が出演したとき、それを見ようと観客があの建物を七まわり半取巻いて開館を待った、という事件である。私はその列には参加しなかったが。  もっとも、語り草とおもっていたのだが、編集部のN君は三十半ばの人物だが、そのことを知らなかった。 「李香蘭が山口淑子というのは知っているだろうね」 「それは知ってます」  と、N君は言う。  もっと極端なのは、四十歳くらいのM君で、 「え、李香蘭が日劇のまわりを七回半走ったのですか」  と、言う。 「君、なんで李香蘭が走らなくてはならないんだね」 「でも、皇居何周マラソンとかいうのがあるじゃないですか」  となると、簡単に説明しなくてはなるまい。  それは、昭和十六年二月十一日から十七日までの「歌う李香蘭」というプログラムのときである。昭和十六年二月といえば日米開戦の十ヵ月前で、日支事変は未だにカタがつかない時である。そういうとき、敵国の歌姫がやってきて人気沸騰した理由は、すぐには思い出せない。たしか、眼の大きい支那(当時)美人の歌が、まず中国大陸の占領地区でヒットした。|姑娘《クーニヤン》と日本の男との恋を取扱ったものもあったとおもう。「イツノ日カ、君再ビキタル」というような歌詞も、おぼろげに覚えている。つづいてその歌が日本に上陸してきて、クーニャンという言葉などとともに大流行となったとき、その歌姫が親日家として来日、というプロセスだったろう。  敗戦になると、李香蘭はじつは日本人だった、ということになり、帰国して映画女優になり、池部良との共演「暁の脱走」などで人気スターになった。そして、いまは山口淑子として、参議院議員になっているのは周知のことだが、不思議な一生である。  戦争末期は、日劇は閉館となり、風船爆弾の製作所と化した。当時、その極秘である筈の噂が伝わってきたとき、なんとも情ない気分になって、敗戦はもう目前とおもったものだ。  しかし、いまは「ミュージック・ホール」の話に戻ろう。     四  現在、手もとの週刊誌を開くと、カラーグラビアに女の裸が食傷するくらいころがっている。女子大生のヌードというものも、いくらでも見ることができる。  したがって、敗戦直後、舞台の上に裸の女が出て来たときの興奮感激を伝えることは、きわめて難しい。また、そういう観客の視線を集中される裸の女の心持も、いまとはずいぶん違ったものだったろう。  戦後のヌード第一号は、新宿・帝都座の額縁ショーで(異説もあるが)、私も見物に出かけたが、舞台に|設《しつら》えた大きな額縁の中に、泰西名画よろしく裸の女が大きな麦藁帽子を腹のところに当てて、|拗《す》ねたような表情をしてじっと動かずにいるだけのものだった。 「入場料返せ」  と、いまなら言われるものだが、当時の観客はみな満足して帰った。そのことだけで、その女性の「甲斐美春」という名は残っている。しかし、これは何だったのだろう。観客が舞台の上の乳房に興奮したのは確かだが、女の乳房や裸は生れてはじめて見るものではない。しかし、舞台の上でのそれは初めてで、そういう時代になったことを確認して満足した部分があったとおもう。丁度、「リンゴの歌」が敗戦の国民に希望を与えたということで、その歌一つだけで並木路子の名が残っているように。  それに、そのころは裸になり手がなかった。日劇(NDTが活躍していたほうの、つまり大きなスペースのほうである)の案内ガールが、浅草の芝居に出てくるヌードモデル役として|一日《ヽヽ》八百円でスカウトされた、という話もある。昭和二十一年のことで、因みに当時の私は女学校の時間講師をしていたが、その|月給《ヽヽ》が四百円だった。  しかし、そういう時期はごく短かく、女たちはつぎつぎに裸になりはじめ、ストリップ草創期のスターたちが登場してくる。ただ、彼女たちにしても、シラフで舞台に立つことはむつかしく、覚醒剤の力を借りていた。ジプシー・ローズがヒロポンを使っていないということで話題になったくらいだったが、その彼女にしても後年アル中になった。  焼跡で飢えていた私は、やがて大学を中退して娯楽雑誌の記者になった。昭和二十四年ころ、自分のところの雑誌に「ストリッパー総点検」という記事を書いたくらい精通した。当時のストリッパーの名は、今でも記憶に鮮かである。  草創期のトップスターは、次の四人であろう。  ヒロセ元美  伊吹マリ  メリー松原  ヘレン滝  後の二人は、浅草で活躍していた。対照的な躯つきで、メリー松原は胴がくびれやや痩型で乳房が大きく、長い手足をゆっくり扱って踊った。一方、ヘレン滝は胴のくびれがすくなくいささか縫ぐるみ風の体形で、髪振りみだして踊った。凄んだような表情で思い入れの強すぎる踊り方をした。メリー松原を日劇小劇場で見たのははっきり覚えているが、ヘレン滝が出演したことがあったかどうか。  ヒロセ元美は、羽毛でつくった大きな扇を二つ使ってのファン・ダンスで有名で、交互に扇を動かすのを見ていると、全裸で立っている錯覚が起った。 「これがなかなか美人でね、眼を細くして眺めると、小暮実千代そっくり」  当時私は、しばしばそう説明していた。  伊吹マリは最初から大姐御という感じでしか思い出せない。いま不意に、彼女の|御高祖《おこそ》頭巾姿が眼に浮んだが、そういえば、名前を「伊吹まり代」と変えたり、|剃髪《ていはつ》して尼になったりした。  この四人も活躍をつづけていたわけだが、次の時代となると、誰だろう。  小浜奈々子  奈良あけみ  春川ますみ  吾妻京子  ハニー・ロイ  ジプシー・ローズ  そのあとがつづかないが、合計十人で丁度いいかもしれない。     五 「ミュージック・ホール」の客席で舞台を観ていた二時間、私は眼の前のヌードショウをとおして、三十年前のストリップ時代のいろいろを思い出していた……。そのことに、しばらくしてから気づいた。それはまた、私自身の青春を思い出していたことにもなる。  ストリップ時代には、最前列の客が舞台を見詰めながらオナニーをしているのは、ありふれた事柄だった。そうでない客も、舞台の裸に、欲情の眼を向けていた。もしも視線が力をもっていたら、踊り子の全身は|痣《あざ》だらけになっただろう。その時代に、松永てるほがデビューしていたとしたら、十五年という長いあいだ躯の線を崩さずにトップスターとして踊りつづけられたとはおもえない。「ヌードショウ」の舞台を観る眼は、鑑賞する眼であり、その視線はやわらかく踊り子の裸を撫でて栄養をあたえている。  その舞台に重なり合って、ヒロセ元美、ジプシー・ローズなどなどの姿がチラチラと動いていた。  小浜奈々子の登場は、いまでも鮮かにおもい出される。腰が胴につながる部分に、左右対称に窪みがあって、それが|笑窪《えくぼ》のように現れたり消えたりした。大きな犬歯のあるまるい顔は、愛嬌のよい小鬼のようだった。そのとき彼女は、まだスター扱いではなく、時折ソロで踊る役がついてくるくらいだとおもうが、 「これは、トップスターになる」  と、私はおもった。  奈良あけみは最も美人のストリッパー、春川ますみは最も愛嬌のよい|気風《きつぷ》のよさそうなストリッパーで、二人とも女優に転身した。そのころはエロダクションやロマンポルノはない。奈良あけみは長つづきしなかったが、春川ますみは性格女優としていまでも健在である。  ハニー・ロイは、最も乳房の大きなストリッパー。吾妻京子は、新宿を本拠地としていたが、最もデリケートな皮膚の上品なストリッパー。ジプシー・ローズは最も熱烈なファンの多いストリッパー、といったところだった。  この吾妻京子も猫型の美人だった。ただ、彼女が日劇小劇場の舞台を踏んだことがあったかどうか。「東都人気ストリッパー勢ぞろい」という企画があって、それを見に行った記憶がある。それにはヘレン滝も吾妻京子も出演したとおもうが、その舞台が日劇小劇場だったかどうか、思い出せない。  そのほか異色のストリッパーとして、私の印象に残っているのは、  R・テンプル  フリーダ松木  園はるみ  そして、リリー谷。  R・テンプルは、アクロバットをストリップに取入れたところが、たしかに異色であった。小柄で可愛らしい女だったが、事件が起った。私は居合せなかったが、日劇小劇場の突出舞台を逆立ちして歩いているR・テンプルのバタフライを、客の一人が立上って持上げると指を一本差し込んでしまった。R・テンプルは泣きながら退場、その客には非難ごうごうということになったそうだ。  フリーダ松木は、細身の面長な美女で、日舞ストリップが似合ったが、出臍だった……、とおもう。これだけ裸の女たちがいれば、デベソのストリッパーも一人くらいいてもいいだろう、とおもい、心懸けて探していた。ようやく見付けたのが、フリーダ松木である。今だったら、南雲吉和ドクターに整形してもらえばいいわけだが。出臍で裸になって舞台に立つ、その心持は複雑だったろう。  園はるみは、鳩の街(向島の赤線地帯)にいた、という噂だった。大柄の肌の茶色い女で、観客たちの粘りつくような視線を愉しんでいるようなところが、その身のこなしに見られた。舞台の袖に引寄せられた黒いカーテンを男の身体に見立てて抱きかかえ、腰を振る演技を当時のストリッパーたちはしばしばおこなったが、園はるみはとくにそれを多用した。腰をうねるように回すテクニックを「グラインド」、前後に振るのを「バンプ」と、腰の動かし方の技巧にもいろいろの名称があったが、彼女のグラインドもバンプもいささか荒々しく情緒に欠けた。  リリー谷という名を覚えている人は、少ない筈であって、時折ソロで踊る場面がある程度の踊り子だった。十数年前、ストリップショウのプロデューサー兼ジプシー・ローズの夫だった正邦乙彦にたずねてみたが、その名を覚えていなかった。つまりは、私の趣味に叶ったわけで、目立つ女ではなかった。鼠のような顔つきをしてすこし淋しそうで、肋骨が浮いてみえるような痩せた躯には不似合な大きな乳房があったが、そういうところが良かった。今回、苦心してようやく一枚だけ写真を見つけてもらったが、舞台の印象とはかなり違うにしても、いかにも「踊り子」という人の良さそうな感じで好感がもてる。前歯が二本、金属の枠をつかって治療されてあるが、遠くからみるとそこが鼠のようにみえたのかもしれない。  後年、彼女は火事で焼死した、と聞いた。そういう噂がつたわってくるところをみると、やはり隠れたファンがいたわけである。 「小劇場」のストリップを「ミュージック・ホール」のヌードショウに変えたのは、たしかに正しいやり方だった。私たちの知っている「天の岩戸」を開かせたようなストリップの時代は、昭和二十年代のおわりで終っている。「|特出《とくだ》しストリップ」は、これはまた別のものだ。  それから歳月がたって、昭和五十六年一月に、私の見たヌードショウの題名は「新たなる愛の旅立ち」というものである。そこには「サヨナラ公演」の意味も含まれているが、「妖精は春風とともに」というような題名が、ここの公演にはつづいていて、それは確かに「ヌードショウ」のものだ。  ストリップの題名の最高傑作は、「女のパクパク」というものだ。浅草の小屋であったと記憶しているが、これが日劇小劇場であっても、ふしぎではない時代だった。しかし、その時代はとっくに終った。  そして、現在の私は、ヌードショウも「特出し」も積極的に見に行く気になれない。もっと年老いたならば、そのどちらかの客席に坐り込んで、はるか遠くになった青春を茫然として思い浮べることもあるかもしれない。  そういえば、あの女は……。大柄で胸と尻がそれぞれ大きく突出して、|肌理《きめ》はいくぶん荒かったが、それは化粧でカバーできる。あの女は、同伴ホテルの鏡張りの部屋を明るくして、胸を反らせ尻を突出し、さして用事もないのに、私の視線だけでは不足のような気配をみせて、ゆっくりと歩きまわった。躯に自信のある女には、たくさんの男にそれを見せたいというかなり濃厚な気持があるのだろうかと考えたものだ。すくなくともあの女は、ストリッパーになればよかったのだが、現実には暴力団の下っ端の情婦だった。私が……、大昔の私がその女のアパートにいたとき、夜中の十二時ころ、ドアが叩かれた。私はおもわず身構え、いや、身を|竦《すく》めた。女は平然としてゆっくり歩いてゆき、ドアを開くと、僅かの間なにか話し合っていた。足音が引返していった。 「マッサージの人を呼んであったのよ、帰ってもらったわ」  と、女は言った……。  後年、場数を踏んでいる女たちにその話をするたびに、「それが、マッサージ師であるわけはないのよ」と、いささか呆れ顔で私を見るのである。     六 「最も熱烈なファンの多いストリッパー」とジプシー・ローズについて書いた。したがって、彼女に触れておく必要があるだろう。  大きな女という印象があったが、百六十センチ足らずで、いまでは普通の背丈である。ここに、時代が感じられるが、やはり大きな猫といった印象があった。髪はまっ黒だったが、のちには金髪に染めたり、カツラをかぶったりしていた。ただ、混血ということに劣等感をもっていて、純血と主張していた。ここにも、時代を感じるが、やはり混血だったらしい。  乳首が四つあった。斜め上に副乳が一対あったわけだが、平素は目立たなかった。副乳の持主は、情熱的だといわれているが、そのとおりだった。とても気のいい女で、天衣無縫、赤ん坊みたいだった。  このデータは、すべて正邦乙彦に聞いた話である。  私は、というと、ジプシー・ローズの本拠地であった東劇バーレスク・ルームにも何度か行ってみたが、どうも馴染めなかった。身振りや表情などすべてがオーバー・アクションで、その思い入れが浮き上って見えた。アメリカ兵に圧倒的に人気があったというから、その赤ん坊のようだという感受性の波長が、外国人の大きな身振りのほうに合ってしまったのだ。ヘレン滝も同じく好きになれず、悲痛ともいえる表情をみると、煽情されるより先に、「なにを凄んでんだ、辛いのはきみだけじゃないよ」と言いたくなった。  しかし、後年ヘレン滝は行き倒れのかたちで死に、ジプシー・ローズはアルコールのために|斃《たお》れたこととおもい合せると、この評言は保留する必要があるかもしれない。  彼女たちにああいう表情をさせ、ああいう身振りをさせたのは、薬やアルコールの作用であったとも考えられるのである。     七  この一月中旬のある夜の九時三十分ころ、日劇から歩いて五分足らずの中国料理店の個室で、編集部のN君と私がメニューを選んでいた。「ミュージック・ホール」の最終回が九時十五分に終るので、あと三十分もすれば松永てるほと内藤陳が、この店にくる段取りになっている。  十時五分前、予定のとおり二人は現れた。 「べつに取材のつもりはありません。食事しながら、雑談しよう」  私が言い、 「賛成」 「そういうのがいいわ」  ということになった。  その言葉どおりの気持だった。ただ、この二人と一緒に時間を過しているうちに、なにかプラスになることがあるかもしれないとは考えていたし、一つだけ質問したいことがあった。それは、あの乳暈についてのことである。  |老酒《ラオチユウ》がほどよく回ってきたころ、私がそのことを話題にすると、松永てるほは「おや、ヘンなところに眼をつけたわね」という眼で私を見て、内藤陳のほうへ首をまわし、 「そんな子、いたかしら」  と、意外そうに言う。  乳暈が大きくては舞台に立つ資格がない、とも受取れる口調だった。 「いや、大きいといっても、大き目といったくらいが二人ほど……」  私は付け足して、 「それで、乳暈が大きいと、不都合があるのかな」  と、たずねてみた。 「ええ、垂れる形になるのが、はやいんです」  松永てるほが答え、 「なるほど、これは知らなかった」  と、私は言った。  そのあとは、雑談になった。     八  十一時半ころ食事が終ったが、もうすこし飲みたい気分である。 「きみ、誰かが待ってるの」  松永てるほに聞いてみると、 「そんなのいないわ、大丈夫よ」  まだつき合う気持があるとみて、内藤陳も私も行きつけの小さい酒場に移動した。  話題はいつの間にか、私が松永てるほの楽屋で一日だけヒモの役目をつとめたらどうかということになってきた。  あれは、どういうキッカケだったのだろう。「ミュージック・ホールの楽屋はとうとう一度も行かないままで終るんだな。しかし、行きたいとはおもわない。楽屋って、忙しいところだからね」というようなことを私が言い、「それはやはり、一度は行っておくべきである」と、N君が言ったのだったか。  ストリッパーにはヒモが似合う。しかし、ヌードショウのトップスターには似合わない。しいて取合せれば、パトロンのほうがまだ似合う。  ヒモという言葉が、この際うまくおさまり切れないのをみな承知で、その話がはじまっている。つまり、すべてが洒落である。 「それじゃ、一日ヒモ志願をするか」 「そうなさい、そうなさい」 「とすると、パジャマを持って、楽屋に行けばいいの」  私が言うと、 「なんてことを言うんです」  と、内藤陳が説教口調になり、 「パジャマだなんて、そもそもヒモの心構えからして落第です。なにかに着替えたいなら、トレパンですな」 「トレーニングパンツをはくわけ……」 「そう、トレパンで楽屋の隅に正坐ですよ」 「パジャマで寝そべって、酒でも飲んでるんじゃないのか」 「とんでもない、ヒイキの客が訪ねてきたとき、どうするんですか。いつも影のように存在していて、なにかあったとき、すぐに姿をみせる。たとえば、バタフライから毛がはみ出していたりしたら、ヘアピンのまるいほうを使って、丁寧に心をこめて押込むんですよ」  と、内藤陳がその素振りをしてみせた。彼がエノケン最後の弟子であることを、この日はじめて知った。 「ふーん、ラクじゃないな。いえね、ヒモというのはラクじゃないことは知ってましたよ、だけど……、トレパンで正坐か。それじゃ、そもそも、どういう呼びかけ方をすればいいの、てるほさん、ていうわけ」 「それでは他人行儀、てるほ、でよろしい」 「てるほ」 「その発音はダメ。てるほー、というように、ほの字のあたりにやさしさをこめなくちゃ」 「てるほー」 「どうも違うな」  酔った勢で、それでも|挫《くじ》けずに、具体的に日取りの打合せまできめたりした。一方、時間のほうも気にかかって、 「そうだな、午前一時になったら車を呼ぼう」  と、松永てるほに言った。 「そうね、明日は土曜で一回余分にあるから、早寝しなくちゃいけないけど」  そう言われて、慌てた。 「これは、悪かった。そんなこととは知らなかったもので」 「いえ、大丈夫よ」  腕時計を気にしていた私は、午前一時になったとき、 「一時だよ」 「でも、まだいいわ」 「よくないだろ、明日の一回目が十一時だからね」 「いいの、わたしはもう少し飲みたいの」 「そうだな、タマにはいいだろ、もう少し飲もうや」  これでは、とてもヒモになる資格はなさそうだ。  しばらくして、N君が電話器に近寄って、車の手配をはじめた。それが正しいとおもう。私だけのことをいえば、これまでに飲んだ酒だけでも、明日はかなりの二日酔になっていて、一日寝ていなくてはならないかもしれない。 (一九八一年)  むかし恋しい銀座の柳  銀座の柳の並木が伐られてしまったのは戦後しばらくしてのことだが、その理由をいま考えてみると、どうしても思い出せない。当時、新聞紙上でいろいろ論議されたことだけは覚えているが。大通りから都電を除去したことについては、理由はよく分る。同じように、半蔵門から九段上までの広い通りにあった、見事な桜並木を伐った理由も思い出せない。  もう一つ惜しいものは、夜店である。大通りの歩道の端の車道寄りのところにずらりと並んでいたのだが、東銀座側のほうが人通りがすくなくて、これは現在も同じである。  東京の山の手の子にとっては、親に連れられて乗ったタクシーが皇居の堀端に出ると、遠くに光のかたまりが見えてくるのは、胸のときめく眺めだった。小学生のころは、バーは関係なく、銀座はアスターの中華料理であり、資生堂レストランの定食であり、オリンピックのショート・ケーキであり、そして夜店の賑わいであった。  それから数十年経ったある夜、並木通りを歩いていて、十年ぶりくらいに昔馴染のホステスに出会った。日航ホテルの近くの小さいクラブに勤めているというので同行すると、これが不思議な店だった。ホステスの平均年齢は四十歳を越していて、ほぼ私と同じくらい(十年ほど前のことである)である。  飲物をすすめると、ヒヤのコップ酒を注文する女が多く、だんだん酔っぱらってきて昔の銀座のはなしになった。東京の中流育ちが多いらしく、「新橋ビューティ」など知っていたので、驚いたり懐しかったりした。これはエスキモーという喫茶店独特のもので、いろいろの色のアイスクリームが層を成して細長いガラス容器に詰めこまれてあった。  そういう話をしながら、元美人風の年増たちと飲んだ。  ところで、銀座のクラブでの川端康成氏との立ち話について私が書いたことがあって、これがあちこちに引用されるが、みんな少しずつニュアンスが違う。この際、正確なところを書いておきたい。  ある関西系の店(こういうのも、昔はなかった)で、川端さんに声をかけられた。 「このごろ、銀座のバーへは行ってますか」  私が答えて、 「あまり行きません。なにしろ、勘定が高いもので」 「高いとおもったら、払わなければいいじゃありませんか」  ここのところは、たしかに川端さんらしく、そこがあちこちに引用される点なのだが、私の返事にやや上の空のところがあった。川端さんがニコリともしないのは珍しくないが、このときには、私の紋切型の答えをやや咎めている気配もあった。  銀座といっても、いろいろな店があって、路地の途中(銀座の路地が、私は大へん好きだ)の小さい店が、コールガールの溜り場であったこともあるし、かなり安い店もある。しかし、一流の店はもともと昔から高いので、そのことを十分私は知っている。  太平洋戦争がはじまったばかりのとき、私は旧制高校生だったが、叔父と二人で銀座の一流店へ行き一時間半ばかり騒いだ。勘定は、当時の大学卒の初任給くらいになり、私たちは動きが取れなくなったものだ。  このごろでは、銀座の一流クラブで飲めるようになることが「男の花道」だと言われているらしい。こういう発想を与える場所になったとすれば、銀座もずいぶんヤボになったもんだ、とおもわないわけにはいかない。肩肘張って、眉を釣上げて、乗込む場所ではなかった筈だ。戦後十年ほどは、銀座には昔の香気が失われて、むしろ新宿のほうに昔のままの学生街らしい気分が残っていた。  しかし、そういう時期でも、古くからの店には昔ながらの味と女給気質が残っていた。当時私は娯楽雑誌の編集者だったが、社長と一緒によくそういう店へ行った。なにしろ生意気ざかりで社長のお伴という気分はまったくないし、だいいちその社が倒産間近でその社長は勘定を払わないのである。  それでも、女たちは私たちを歓迎してくれて、 「社長さん、いい編集長をもって、おしあわせね」  などと言い、社長は苦笑いしている。  店がハネると、その女たちが私にナベヤキうどんをご馳走してくれたりした。  もっとも、そういう思い出には、私の若さが絡んでいる。このごろでは、ホステスの言うセリフがぜんぶお世辞にきこえて(じじつ、そうなのであろう)腹が立ってくる。それなら出かけなければいいのだが、やはり時折足が向く。へんなものだ。 (一九七八年)  私の小説の舞台再訪  赤線地帯が廃止されて、十年になる。その十年間に、吉原とか新宿二丁目の旧赤線をのぞく機会はあったが、鳩の町には一度も行ってみなかった。どうなっているか、という噂もつたわってこない。だいいち、いまの若い人はその名前さえ知らないだろうから、簡単に説明する。荷風の『墨[#底本では「さんずい」+「墨」。以下すべて]東綺譚』の舞台である玉の井の私娼窟は、戦後その場所を東に移し、旧玉の井の西側に「鳩の町」という名称の場所ができて、この新興の土地のほうが玉の井より活気があったが、迷路の町であることは同じであった。「抜けられます」という有名な標識は、鳩の町にもあったように記憶している。  このごろ健康がすぐれないので、出かけるのが億劫な私なのだが、この訪問には興味があった。昔の恋人に会いに行く気持は、こういうものか。電車通りからの表口を見つける自信がないので、隅田公園のはずれに近い裏口からもぐり込む。ぼんやりした記憶をたどって歩いてゆくと、それらしき家並みの場所に出たが、ともかく一たん電車通りまで出てみた。肉屋のおかみにたずねて、昔の入口が分った。三メートルほどの道端の入口には、昔は「鳩の町」の文字の入ったアーチがあったが、そのアーチはない。しかし、その道筋には数メートル置きにアーチが組まれて、そこに「鳩の街通り商栄会」という横書きの札が掲げられている。  これにはわが意を得たが、意外でもあった。土地の人は、「鳩の町」という名前に愛着をもって、これを残そうとしている。  この通りの途中から、右へ折れ込むと、そこに迷路の町がひろがっている。右へ折れる路地を、私はごく自然に見付け出した。記憶が甦りはじめた。その路地をすぐに左に曲る。昔と同じ建物が道の左右に並んでいるが、人影はほとんどない。午後四時、昔ならチラホラ女の影が見える時刻である。建物を調べてみると、人の住む家もあり、安宿もあり、無人の家もある。「三畳貸します」という札がみえたりする。この近くの店のバーテンダーなどが借りる、ということを、あとで聞いた。  私は、以前「花政」という屋号だった家を捜している。それとおぼしき家では、道に面した部屋で一家三人が手内職をしていた。首を突込んで、たずねてみる。私の記憶ちがいで、その道が突当り、右へ折れ、すぐに左に曲ると、また同じような家並みが現れる。ここで私の記憶ははっきり甦って、狂いなく「花政」の店へたどり着いた。  その店は昔のままだが、内部では機械が並んでうなり声をあげて動いていた。ここのおやじは山崎政吾氏といって、懇意にしていた。十数年前、そのおやじが「もうこの商売はだめです。わたしはポリエチレンの加工業に転業します」といったが、いま私の目の前では、十数年前の言葉どおりに、黒い機械が印刷されたポリエチレンの袋を吐き出している。感慨があった。  ところで、ここで作品『原色の街』についてふれる必要があるだろう。二百二十枚ばかりの『原色の街』は、昭和三十一年に刊行になったが、その原型となった百枚の作品は二十六年秋、同人雑誌「世代」に載って、芥川賞の候補作になった。その作品を書きあげたのは、さらにその一年前、二十五年のことである。昭和二十五年といえば、いまから十八年も昔のことで、いま一瞬、歳月の詐術にかかった気持になった。  作品の意図については、以前に書いたものがあるので、引用する。 「この作品の背景は、いわゆる赤線地帯であるが、その場所の風俗を書こうとおもったわけではない。このときまで私はそういう地域に足を踏み入れたことは、二、三度しかなかったし、娼婦にふれたことは一度もなかった。もともとこの作品で私は娼婦を書こうともおもわなかった。  私の意図の一つは、当り前の女性の心理と生理のあいだに起る断層についてであって、そのためには娼婦の町という環境が便利であったので背景に選んだ。意図のもう一つは、娼婦の町に沈んでゆく主人公に花束をささげ、世の中ではなやいでいるもう一人の主人公の令嬢の腕の中の花束をむしり取ることであった。善と悪、美と醜についての世の中の考え方にたいして、破壊的な心持でこの作品を書いた」  しかし、背景があまり出鱈目では困るとおもっているとき、たまたま「花政」の主人に紹介してもらう機会があった。以来、懇意になったが、私はこの町では馴染みの女はできなかった。そのかわり、いろいろな友人を引張って行って、山崎さんに紹介した。私は、女にではなく、この町全体に耽溺していた。『原色の街』の主人公のような娼婦は、現実には存在していないとおもっていたが、その後、新宿二丁目でそっくりとおもえる女性を発見した。私の娼婦への耽溺は、そのときからはじまり、その体験を芯にして書いたのが『驟雨』『娼婦の部屋』などである。  ところで、ポリエチレンの小工場に声をかけると、若い男が顔を出して、私を覚えている表情になった。この家の息子で、当時は中学生であったというが、私は忘れていた。間もなく、この家の山の神が現れ、これは忘れてはいないどころか、ひどく懐しい気分である。当時、いろいろ迷惑をかけ、面倒をみてもらった。  コウモリ傘をカタにして、泊めてもらったこともある。なにしろ金がなくて閉口していた時期だから、ずいぶん無理をいった。金を持っていない友人二人を借りで泊めてもらい、私自身は金を借りてほかの店へ泊まったこともある。もっとも、これらの金は、結局工面してきれいにした。遊びの金の借りと、勝負事の借りは、私には残っていない。  作品の中に出てくる次の言葉は、昔、直接「花政」のおやじから聞いたものである。 「近ごろでは、子どもたちがかわいくて、少年野球に手を出していますよ」 「あたしゃね。この少年野球の仕事が一段落しましたらね、翌々年の区会議員選挙に、一つ立候補しようと考えているのです」  その言葉のように、現在、山崎氏は区議(四選)であり、少年野球の仕事もつづけている。  座敷へ上がって、奥方と雑談していると、「おやじ」が帰ってきて、一しきり話がはずんだ。雨の日であった。私が山崎家に別れを告げているとき、おやじは私のコウモリ傘を見て「いいコウモリを持っているね」と、笑った。あきらかに往時を思い出している笑いであった。     ☆  十年以前に書いた『驟雨』という作品の背景は、新宿二丁目である。この十年のあいだに東京のビルの数はいちじるしく増え、道路は自動車で埋められ、地下鉄は地面の下で枝をひろげた。もはや戦争のための廃墟のあとは無くなったが、しかし四年前、赤線廃止とともにいくつかの新しい廃墟が現れ出て、現在もその一部はそのままの姿をさらしている。 「二丁目」といえば、以前は娼婦の群を指していたが、今ではそれは単に土地の地名になっている。  その一部分は、トルコブロやヌードスタジオや旅館に変身したが、残りの建物はそのまま入口を釘付けにされ、夜になっても灯をともさない。そういう暗い家を眺めていると、一層あざやかに往時の情景がよみがえってくる。 「ちょっと、ちょっと、そのお眼鏡さん」 「あら、あなたどこかで見たことあるわよ」 「そちらのかた、お戻りになって」  客を呼ぶ娼婦の声として、私はこのように作品の中に書き記した。じつは、この文句は永井荷風『墨東綺譚』のうちからそのまま持ってきたもので、また事実、戦後の町でも女たちはこれと同じ呼び声を口に出していた。戦後の娼婦の町は明るいクリーム色のペンキのように、戦前の陰翳を失っていたが、客を呼ぶ声だけは昭和のはじめと同じだったのである。そしてこういう場所にもぐりこんでゆく男たちの心も、やはりいつの時代になっても同じようなものだろう。 (一九六八年)  飲  む  酒屋、というのは居酒屋のことではなく、酒や味噌や醤油や罐詰などを売る店であるが、以前には、その酒屋の店先で一合枡に口を寄せて、く、くーっと冷酒をあおり、塩を一つまみ口に入れると立去っていくという形もあった。俗に「飲む、打つ、買う」というが、「飲む」の煮詰った形が、そこに見られた。酒屋の店先に最近ではホームバーに似た台があって、ツキダシのツマミモノの袋などを開けたりするようになっている。  酒屋の店先が一ぱい飲み屋に近づくのは無用のことなので、せっかくの煮詰った感じがいくぶんブヨブヨ膨らんでいるが、立寄る客の側は昔ながらの気分をある程度守っているようだ。気焔をあげたり、愚痴ったりする客はなく、女の店員は客のからかいを受けつけず、一人の立寄る時間は平均五分以内ということだ。東京都内でも神奈川県でも酒を燗することを許されていないが、ほとんどの客はヒヤのコップ酒を愛する人たちである。燗酒をちびちびやりながら……、というのには、また別に適当な場所がある。  売っているのは、日本酒だけではない。  焼酎四十円。合成酒四十五円、二級酒六十円、一級八十円、特級百十円。ビール大瓶百二十円、小瓶七十五円。ウイスキー四十円、ブランデー(電気ブラン)五十円。その他。  これらは小売値と同じだが、ビール小瓶だけ五円高い。その五円が手数料と称するだけあって、売れる量が最も多い。ウイスキーは、トリスやオーシャン級か、あるいはそれ以下のグラス一杯売りだが、水で割る客はほとんどいない。当然、予想のつくこととおもうが、特級酒は滅多に売れない。  客が混む時刻は、都内で六時前後、神奈川県に移ると七時半ころだそうで、これは勤めが終って帰りに一杯、ということを示している。しかし、勤め人といっても、薬屋の店先で百円出してアンプル入り栄養剤をチューッとすするサラリーマンは含まれない、と考えてよいだろう。酒屋の店先の客たちは、その百円をもったいないとおもい、あるいは無意味とおもうことだろう。  現在、街に酒は豊富である。しかし、金がなければ、酒もないのと同じである。  戦後しばらくの頃、酒屋の店先で一杯の焼酎を飲み干すたびに、鼻をつまんで百メートル疾走する男を知っていた。酔いのまわりが早くて烈しくなるから、とその男は言っていた。あるいは、こういう場面に居合せたことがある。屋台のシナソバ屋にいると、ねじり鉢巻の労働者風の男が入ってきて台の上に十円銅貨を四枚きっかり積みあげると、渡された焼酎のコップを一息で飲みおわり、さっと|暖簾《のれん》を払って立去った。風のごとく来たりて、風のごとく去った。そのとき二十数歳だった私は、「おれだって、あのくらいはやれる」とおもったものだが、いまでは到底その体力も気力もない。  このような、百メートル疾走風の飲み方も、颯爽あたりを払う式の飲み方も、いまの酒屋の店先のものではない。前者が似合うほどまでには、いまは乱世ではないし、後者には酒屋の店先自体が似合わなくなっている。客はみな穏健に、黙々とそれぞれの酒をたのしんでいる。 「飲む」という形がかなり純粋に保たれている場所だということはこれで分ったが、それではここにくる男たち(女は皆無といってよい)はなんのために飲むのか。  閉店が午後十時であることをみれば、梯子酒の仕上げの場所ではないのはあきらかである。さりとて梯子酒の皮切りの場所という余裕のある感じを、客の顔にみることはできない。一杯のコップ酒、一杯の電気ブランと聞くと、私たちの年代のもの、いま私がすぐに連想するのは、玉の井の迷路の入口にあった屋台とか、新宿二丁目赤線街のはずれの屋台などである。一杯の酒が点火剤になって、娼婦の町に入ってゆく。女のための金の工面は、酒の金の工面とはまた別のところにあった。しかし、いまはもう、そういう娼婦の町は存在していない。  客の一人は、 「酒を一杯飲んで、帰ったらすぐに眠ってしまう」  と言ったが、これはもちろん、眠るために酒の酔いを借りるというようなぜいたくなことではない。 「一杯の酒」その次にくるのは、もう一軒の酒場でも、玉の井の迷路でもなく「眠り」である。「眠り」は、快楽であり、おまけに無料である。  戦争中に、国民酒場に行列してようやく手に入れた一杯の酒のことを、私は思い出す。それは合成酒であったが、あきらかに琥珀色をした美酒であった。掌につつみこんだガラスのコップの中に、私のすべての意識は集中し、その瞬間、私は幸福であった。それにつづく眠りの中に開く世界が、当時の私にとっての現実であり、現実を夢とおもい、夢を現実と|見做《みな》す作業に、私はしだいに習熟していったものだ。となれば、八時間の仕事が終ってから立寄る酒屋の店先の一杯の酒は、欠かすことのできない必需品となってくる。その一杯の酒は掌につつみこんで、慈しむものになる。  日曜にも開店している店もあり、常連たちは、日曜も午後六時ごろになると週日とまったく同じように集ってくるという話は、なるほどとうなずける。 (一九六六年)  木馬のある風景  子供の頃の日曜日のたのしみといえば、遊園地に連れて行ってもらうことだった。今と違って、都心の後楽園遊園地などはなく、長い時間郊外電車に乗ってようやくたどり着く。電車から降りたたくさんの人間が、みな遊園地に行く錯覚が起って、気持が|焦《あせ》る。それも、私の好きな遊び場を目的にして全部の人が進んでゆく錯覚が起る。満員になって順番がなかなかまわってこない、とおもい一層焦り小走りになる。  私の好きな遊び場というのは、猛獣狩りと称する射的場である。|洞窟《どうくつ》の形をした建物に入ると、薄暗い中で、ライオンや象や虎が右から左へとゆっくり動いている。ブリキ板にペンキで描いた猛獣たちで、それを標的にしてコルクの鉄砲で撃つ。薄暗い中に入ると、カビくさいような陰気なにおいがして、それが私を|懐《なつか》しいような気持にさせた。人間の性格に、陽の当る場所を好むタイプと薄暗いところを好むタイプがあるとすれば、私は、はやくも、当時から後者であったわけだ。  遊園地というのは、あきらかに子供を対象にしてつくられたものだが、大人になってからも時折、私はそこへ出かける。郷愁的気分になるのは当然だが、それだけでなく、遊園地は大人をロマンチックにまたセンチメンタルにさせる。それも、衛生無害のロマンチックな気持、センチメンタルな気持である。目まぐるしい現代生活のストレス解消のためには、ときに遊園地に出かけるのがよい。  萩原朔太郎に、「|遊園地《るなぱあく》にて」という詩がある。   |遊園地《るなぱあく》の午後なりき   楽隊は空に|轟《とどろ》き   廻転木馬の目まぐるしく   |艶《なま》めく紅のごむ風船   群集の上を飛び行けり。   今日の日曜を|此所《ここ》に|来《きた》りて   われら模擬飛行機の座席に乗れど   |側《かた》へに思惟するものは寂しきなり。   なになれば君の|瞳孔《ひとみ》に   やさしき憂愁をたたえ給ふか。   座席に肩を寄りそひて   接吻するみ手を借したまへや。   ……(以下略)……  たしかに、大人を主人公とする作品にとって、その背景として遊園地は絶好のものである。さまざまな小道具が、さまざまな複雑な|陰翳《いんえい》を、登場人物に投げかけてくる。私も、二、三の作品の背景として、遊園地を使ったことがあった。  たとえば、こういう情景──。登場人物は老紳士とその若い夫人と青年。夫人が老紳士を、ペンキ塗りの小さい建物の中へ入るように、誘っている。その建物は窓のない壁と、三角形に尖った屋根を持っている。屋根の赤ペンキも、外側の壁に塗られた青ペンキも、風雨にさらされて色あせている。小屋の正面には、「ビックリ・ハウス」と書いた看板が掲げられている。  この建物は、人間を中に閉じ込めると、床が揺れはじめる。眼の錯覚を利用して、天井と床とがさかさまになる感じを起させる仕掛けである。遊園地に行くと、私は好んでその建物に入ってみるが、錯覚と分っていてもいつも驚かされる。  さて、その建物の前に立った夫人が、その年老いた夫を誘っている。夫人は、若くて美人である。厚目の唇には、そそのかすように濃く口紅が塗ってある。眼が|濡《ぬ》れてよく光る。 「パパ、一緒に入ってみましょうよ」 「わしは血圧が高いから、とてもあんなものに入ってみる気になれんよ。やめておこう」  と紳士は言い、不満気な妻に、青年と一緒に入ってみるようにすすめる。  ……というところまで見れば、その後の人間関係は、何となく想像がつく。子供のための遊び道具の一つ一つが、大人の人生の断片を感じさせる……。その感じが好きで、私は時折遊園地に出かけてゆく。  ジェット・コースターが、大きなカーヴにさしかかると鋭い金属音を|軋《きし》ませるのだが、そういう音も、場合によっては危機感や不安と、密接な関係をもってくる。平日の閑散として、乗物などが動いていない遊園地は物悲しい気持を起させるが、混雑して絶え間なく子供のはしゃぐ声のきこえる遊園地も、やはり私には物悲しくおもえる。  これと違って、最初から大人のためにつくられた遊戯場がある。たとえば、スポーツ・ランドなどと銘打たれて、コルクの鉄砲の射的場とか、電気仕掛けのさまざまな遊び道具などが並べてある場所である。  私が子供の頃には、浅草松屋の八階がスポーツ・ランドになっていた。それは、子供及びその付添いの大人を目標にしてつくられたもので、中央には回転木馬が音楽の伴奏でぐるぐるまわっている。しかし、ここではその木馬はあまり人気がなかった。この種の遊び場のトレードマークとして置かれてある感じである。回転木馬というのは、遊園地のほかの大部分の遊び道具と同じく、あなたまかせであるが、そのスポーツ・ランドの遊び道具は、技術や熟練を要求していた。  パチンコの道具も壁に沿って並べられていたが、現在のような殺伐なものではない。当りの穴に入ると、二つ三つの玉が、のどかに|転《ころが》り出てくる。大当りの大穴で、ようやく十個ほどの玉が出てくる。テンポの遅い、雅致のある遊び場だった。雅致といえば、カンシャク玉と呼ばれる遊びがあった。鉄棒をもった赤鬼の腹のまん中に、ボールを命中させると、鬼の眼にランプがともり、ウウウーという音とともに鉄棒をもつ腕を差上げる。赤鬼は鋼鉄板でつくられてあり、ボールはカワラケのようなもので、的に命中しなくてもボールはハデな音を発してこなごなになる。それが、カンシャク玉と称するゆえんのもので、赤鬼を上役や細君に見立てて力まかせに投げつけるわけだ。つまりは大人の遊戯であるが、的に命中しなくても、爆発音は必ず聞える。  現在でも、鉄棒をもった赤鬼を見かけることがあるが、なさけないことにボールは、縫いぐるみのボールである。赤鬼も木製のものが多い。的に当ればサイレンは鳴るが、当らなければボスンといった頼りない音がするだけである。的に当ることだけに重きを置いているわけだし、ボールは何度でも繰返し使える。この赤鬼をみるたびに、私は戦前と戦後の人情の違いを感じるのである。  子供の心にとって、遊園地が牧歌的とすれば、遊戯場はきわめて都会的でいくぶん悪徳のにおいを感じさせもした。それに、遊戯場は技術と熟練を要する場なので、大人になってからも、子供の頃と同じ熱心さで、足を踏み入れることになる。  もっとも、大人の遊戯場は、パチンコやスマートボールに集中して、スポーツ・ランド風のものは、しだいに姿を消してきた。同じスペースなら、パチンコ台を並べた方が有利という考えであろう。新宿武蔵野館前のビンゴホール二階のスポーツ・ランドも、いつの間にか無くなってしまった。私はここに通って、すべての遊び道具に関して高度の腕前が発揮できるようになっていた。昔風の金魚すくいなどもあって、パチンコ屋ではけっして求められない、ゆとりと雅趣があったのだが、残念なことだ。  浅草国際劇場の近くに、アメリカ製の電気仕掛けの遊び道具を並べた店があり、ここにもしばしば通ったものだが、それも閉鎖になってしまった。日比谷の有楽座わきに、同じような道具を並べたコーナーがあるが、その遊び道具は調整がわるくて、感心しない。新宿伊勢丹裏の店も、やはり閉鎖。  スポーツ・ランドについては、次のようなことがあった。部屋の中央に、卓上ホッケーの道具がある。ガラス張りの長方形の箱の両端に一人ずつホッケーのスティックを構えた形の小さい|鋳物《いもの》人形が立っている。ハンドルを操作すると、その人形は右あるいは左に回転して、スティックを振る。そのスティックで銀色の金属球を打ち合って、相手のゴールに打ち込む遊戯である。  昔、私は一人の女性とこの遊戯場へきた。彼女が結婚することになり、そのお別れに一緒に街で遊んでいたわけだ。彼女も私が好きだったようだが、ままならぬ浮世である。そのホッケーの道具を挟んで、向い合ってもみたが、彼女は初心者であり私は熟練者で、問題にならない。ただ、銀色の球を転してみただけだ。  しばらくして、彼女は結婚し、私は一人でそのスポーツ・ランドに足を踏み入れた。そのとき、ホッケーのガラス箱の中に、異様なものを発見した。スティックを構えた鋳物人形は、一つは赤、一つは青のエナメルで、ユニホームの形が塗られてあった。帽子をかぶり、目も鼻も描きこまれてあった。ところがその日、青いユニホームの人形が、まっ黒にすすけて目も鼻も消えていた。火事の焼け跡から掘り出された金属の|塊《かたまり》のようになっていた。  私は係りの少女に、訊ねてみた。少女は平凡なありふれた事柄を告げる口調で言った。「その人形、半分にポッキリ折れちまってね、それでツナいだらそんなになったのよ」  こういう詩情に似たものを、私は好む。その場所がつぎつぎと消えてゆくのに、私は愛惜の念を覚える。 (一九六三年)  シャボテンの鉢  子供の頃、私はシャボテンを集める趣味があった。しかし、子供の小づかいでは、その趣味に|耽《ふけ》るわけにはいかず、庭に小さなシャボテンの鉢が二つ三つ並んだだけだった。いずれオトナになったら、庭をシャボテンだらけにしてやろう、と夢想していたものである。  ところで、現在はどうかといえば、そういう趣味は全く無くなってしまった。シャボテンばかりでなく、ものを|蒐集《しゆうしゆう》するという趣味が無くなってしまい、人間の性癖というものは変化するものだという感慨のようなものが残っているだけだ。  さて、シャボテンを集める気持がどうして起ったか、ということを今思い出してみる。と、それはデパートを私が遊び場にしていたことがキッカケとなっていた。  都会の子というのは、とかく|賑《にぎ》やかな場所が好きなくせに、その賑やかな場所にひそむ孤独感をたのしむ性癖も強いようだ。そして、デパートというのはその好みにふさわしい場所である。なぜなら、たくさんの客はそれぞれ自分自身の買物のことで頭が一ぱいで、傍をかえりみることをしない。こちらに注意を払っているのは、売子だけである。  そして、金魚や植木の売場へ行くと、そこはまた、取り残されたように、閑散としていた。当時(今でもそうかもしれないが)、この種の売場はどのデパートでも最上階の一隅にあった。人いきれで疲れると、私はここにやってくる。その閑散として、売子の姿もみえないことの多い場所に、シャボテンのあのトゲのあるコブコブだらけの無愛想な形が、よく似合っていた。私は、いろいろの形のその植物を一つ一つ眺め、そのうちの小さな鉢を一つ買ったわけだ。  シャボテンのことはともかく、デパートを遊び場にして育った子供というのは、そうたくさんはいないだろう。そのせいか、戦後デパートにエスカレーターが復活したときには、私はわざわざ乗りに行ったことがある。 (一九六一年)  師走の隅田川  師走の隅田川を河口のあたりからさかのぼってみないか、と「東京新聞」文化部からの依頼があった。ところが、水上バスは十二、一月は日曜以外は休航である。予定を変えるのも|癪《しやく》なので、水上警察の警備艇に乗せてもらうことになった。  午後二時半、竹芝桟橋を出発する。川の面は、この日はいちめんに波立っている。しかも、川は混雑していない。隅田川にはラッシュアワーはない。白い鳥が群れをなして、川の水ちかく舞っている。これが都鳥、ユリカモメという鳥だそうだ。ときどき砂利舟や|筏《いかだ》の引き舟が通る。糞尿を積んだ船も通る。  川を上下する船のうちこの船は大きい方で、そのうねりを受けて、ひっくり返った舟があるそうだ。警備艇はスピードが速いので、少々の波は平気である。勝鬨橋をくぐると、向うに櫛のような形をした永代橋がみえてくる。そのつぎの形の良い清洲橋あたりまでは、両岸は倉庫がひっそりと立並んでいる。起重機もみえる。風景はすべて直線からできている。白と黒と灰色の風景である。  新大橋をくぐると左に浜町河岸がつづく。人影はあまり見えない両国橋をくぐって、すぐ左の小さな運河に、みどり色の橋がかかっている。柳橋である。夜ともなれば宴会つづきの河岸の料亭も、この時刻には戸を閉して、しずかだ。川の上からみると、東京もずいぶん違ってみえる。十二月の気配はない。 「歳末になると、身投げが多くなるということはありませんか」  とたずねてみたが、高野橋係長さんは、 「ありませんな、冬は身投げは少ないです。水で死ぬのは寒くていやとおもうらしいですな」  隅田川には、どこにもあわただしさはなかった。ところが、吾妻橋を過ぎ言問橋を過ぎたとき、異変が起った。  小さな船の上に、二人の男が立上って、腕を振りまわして警備艇を呼んでいる。近づくと、水面を指さして、叫んだ。 「人間が落ちた」  指さしている水面を見ると、みどり色のバケツと、黒い帽子が浮んでいる。 「いま、落ちたんだ。ちょっとの間、泳いでいたが、沈んでしまった」 「男か、女か」 「男らしい」 「らしいとは何だ」 「あの船から落ちたんだ」  指さすところをみると、五百メートルほど向うに、みどり色に塗った機帆船のうしろ姿がみえる。 「知らないで行ってしまった」  警備艇は、スピードをあげて、その船を追いかけはじめた。無電で他の警備艇に連絡を取る。この船には、引上げる設備がない。百メートルほどの距離になったとき、機帆船はようやく気づいて向きを変えかかった。 「人を落して、行ってしまってはダメじゃないか」  私たちは、その機帆船に乗り移った。ひらたい船で、マンガン鉱を積んでいる、という。船長は船首で舵を取っており、老人の機関長は船底にいた。あとは老婆が一人だけ。だれも気がつかなかった。  落ちたのは二十四歳の甲板員で赤土のようなマンガン鉱に足をすべらせたらしい。  別の警備艇がきて「すばり」という|錨《いかり》の四つついた道具で、水底をさぐりはじめた。ひらたい船の上で、私たちは寒風に吹きさらされ、寒さが身にしみてきた。  死体は上らない。警備艇は執拗に水底をさぐっている。突然白鬚橋のたもとから、黒煙が上りはじめた。火事だ。消防自動車が河岸を走りすぎてゆく。  隅田川は、にわかにさわがしくなった。すばりを引いた艇は、いつまでも水の上をあちこちと走っている。  舵を握った警官の素手がつめたそうだ。もう生きている見込みはない。水はどんより黒くにごって、死体は上ってこない。あたりが暮れてきた。東京の街は灯をともしはじめた。 (一九五九年)  銀 座 と 私  銀座でなくては見付からぬような凝った品物を探して買う、などという生活を僕はしていないし、またそういうものが今の銀座にあるかどうかも知らない。今の銀座と僕との関係は、時折二、三軒の酒場で酒をがぶがぶと無趣味な呑み方をするだけである。その酒場も、とくに銀座でなくては味わえぬ雰囲気を持っているとも思えない。  ところで、子供の頃には、僕はいささか銀座には因縁があった。銀座に家のある子供はともかくとして、僕ほどしばしば銀座に一人で遊びに出掛けた子供はいないだろう。都会の子供は、概ね一人歩きは得意なもので、小学五年生のとき浅草の「笑の王国」へ通いつめたことがある。サトーロクローという役者が好きだったが、そのうち浅草通いが家にバレて禁止されてしまった。  浅草はいけないが銀座なら時々は許す、ということで、今度は方向を変えた。丁度当時、母が伊東屋の七階に美容室を持っていたので、その界隈なら監視の目がとどきやすい、というのである。伊東屋というのは大がかりな百貨文房具店といった店で、なかなか風格のある店だった。デパートとは違った味があって、好きな店だった。伊東屋にくらべると普通のデパートは何となく安っぽいところのような気がしていた。  良く晴れた日曜日などは、麹町の家を出て、わざと乗物に乗らずにふらふらと濠端の舗装路を銀座まで歩く。子供の脚で、一時間ほどかかった。ひとまず母のところへ顔を出して置いて、あとは一人で店内をうろうろするのである。エレベーターで三階まで降りたかとおもえば、五階まで階段を登ったりして、あちこちの売場を覗いて歩く。  背の高い整理戸棚や家具の並んでいる人気のない階の、カビ臭いような匂いも好きだったし、また人の混雑している玩具売場も好きだった。遊びに行くたびに手品の種を買って熱心に練習したが、ちっとも上手にならなかった。  ビルディングを上ったり下ったりしておなかが空いてくると美容室の女の子に付き添ってもらって、地下室の千疋屋へ行った。中央に池が作ってあって、魚が泳いでいるのがひどく新鮮におもえた。そこで、シャーベットとトーストした三角形のパンの上に料理の載っかっているサンドイッチをもっぱら食べた。ついでに食べ物で思い出すのは、エスキモーで食べさせた「新橋ビューティ」と称する五色のアイスクリームなどがある。もう少しついでに思い出せば、当時はどんなシナ料理屋へ行っても、ツバメの巣とフカの|鰭《ひれ》と山芋の飴煮が食えたものだが、当今ではこの三品はなかなか簡単に通りすがりの料理屋では口に入らぬのはどうしたことだろう。  伊東屋でたのしみだったのは、年何回か行われた「文具まつり」という催しである。鉛筆のできるまでの過程を実演してみせてくれたりして、僕は出来上った鉛筆を沢山もらった。軸に何にもネームの入っていないところを珍重するのである。出来立ての鉛筆の木の香がプンプン匂うのが、嬉しいような物悲しいような妙な気分だった。「文具まつり」を開催している階の一角には舞台が設けられて、その上で女太夫が水芸をしたり、力持ちの男が目蓋に糸を挟んで水の入ったバケツを釣上げたり、一銭銅貨を奥歯で噛みしめて柏餅のようにしたりした。  中学生になってからは、母の美容室がもう一軒できた。読売新聞の近く、福音教会の向いあたりのパン屋の二階である。その美容室には当時売出しのフランス女優コリンヌ・リュシェールに似た美少女がいたので、僕はもっぱら、そちらの美容室の界隈で遊ぶことにした。  素晴しい美人に見えた有閑婦人と知り合って、天ぷら屋へ連れて行ってもらったりしたが、べつに石原君の「太陽の季節」のようなことをしたわけではない。そのマダムも案外ウブなところがあって、「いま何を読んでいらっしゃる」と訊くから、レイモントの『農民』のつもりで「ノーミンです」と答えたら、なぜかマダムは真っ赤になった。日ならずしてその理由が分った。彼女は「ノミです」と聞き違えたのである。『|蚤《のみ》の自叙伝』という有名な艶本のことである。  戦争が烈しくなるにつれ、美容室にたいしても圧迫が強くなり、やがて銀座の店は閉店ということになった。  戦争が終っても、母は一向に動き出そうとしないので、美容室と銀座とはそれで縁が切れた。もともと母の仕事は父のマネージメントによるところが大きかったのだが、その父は戦争中死んでしまった。母はジャーナリズムに乗ることにはくたびれたというし、また当今のファッションショウなどは見ていると厭世的気分になる、というのである。僕としても、不便なこともあるが、母の気持に賛成の気分の方が大きい。  このような具合で、銀座は僕の幼少年時代の記憶に特殊な場所を占めている。昔の銀座を思い出すと、その思い出は独特の匂いを伴って浮び上がってくる。今の銀座からは、そういう感じは受けない。しかし、これは、銀座の街が変ったせいばかりではあるまい。  何事も最初の経験は、強烈で特異な味わいがあるものだ。銀座は僕にとって、最初のビルディングの並んでいる繁華街だったのである。 (一九五六年)   ㈽  食卓の光景  食い物の話をしようとおもいます。といって、私はいわゆる食通ではない。しかし、食通風になることを、必要以上に恐れているわけでもない。  私が一ぱい飲屋で酒の肴に|蓴菜《じゆんさい》を注文したのを、あるとき友人のSが非難したことがある。しばらく私はその意味が分らなかった。よく訊いてみると、ああいうぬるぬるしているだけで味も素気もない食い物を注文するのは、|気障《きざ》でそうするとしか考えられない、という論旨である。Sの頭の中では、蓴菜と食通風とが結びつくらしい。  蓴菜は私の好物であって、とくに日本酒の肴によい。Sがそれを旨いとおもわぬのは一向に差し支えないが、他人を非難するのは当っていない、と私が言うと彼は反駁する。 「しかし、おまえはいつか、千葉県市川の駅前でチャーハンを注文してだね、一口食べると、うまいっ、と叫んだではないか」  あの焼飯はたしかに旨かった。そのとき、Sと私は精神病院へ友人のTに会いに出掛けた。Tの神経は健全なのだが、細君に付添ってそのまま一緒に入院してしまったのである。  Tと私たちは、病院の玄関前にある池の傍で会った。Tの姿が見えなくなると細君の神経が|昂《たか》ぶるということで、Tはしばしば薄黒い建物の方を振返って、気に懸けている。そういうTと|対《むか》い合って、私たちはあわただしい気持で、しかし結局かなり長い時間、ぽつりぽつりと話をしていた。  そのときの私は、丁度、書きかけの短篇の結末ができず、気持が|塞《ふさ》がっているときでもあった。建物の中から、ステテコとシャツ姿の背のひょろ高い男が出てきて、池の傍に歩み寄ってきた。コンクリートでつくった丸い池で、その傍に立って水の上を眺めている。池には、金魚が泳いでいた。  その男は、おそらく患者なのだろう。しかし、Tのようにその建物から出てきても患者ではない男もいるのだから、その男も患者ではないのかもしれない。 「厭だなあ」  不意に大きな声で、その男が言った。私たちのことを気にしている気配はない。じっと池の中を見据えている。 「また、金魚が死んでいる」  しばらくして、その男の声がひびいた。水の上に、白い腹を上にして、大きな金魚が浮んでいた。  その声を聞いて、私は書き悩んでいた短篇の結末ができ上ったようにおもった。しかし、気持は一層陰気に結ぼれていった。  Tと別れてバスに乗ったとき、鬱屈した気持の底にへんに昂ぶっている神経があるのに気付いた。気持が昂ぶるときには、ひどく空腹を感じる癖がある。Sを誘って、駅前の小さな中華ソバ屋に入った。こういうときの空腹に似合うのは、飯粒が脂で光り醤油味の強い安ものの焼飯である。こまかく刻んだ焼豚の縁の赤い色がなつかしい。上品な懐石料理などでは、ぜったいに駄目である。  それにしても、あの焼飯をつくった料理人には才能があったとおもう。焼飯ならば、どんな味でもかまわない、というわけのものではない。あの焼飯はたしかに旨かった。    ある夜、私は中国料理店に、数人の連れと一緒に卓を囲んでいた。現在、東京は世界で一番旨い中国料理を食べることのできる場所だ、という話である。才能のある中国人の料理人が故国では腕をふるいようがないので、東京へ集ってきているという話だ。  私たちが卓を囲んでいたのは、そういう料理人のいる店の一つで、いわゆる高級料理店である。したがって、勘定も高い。卓の上には、|鱶《ふか》の|鰭《ひれ》の料理の皿が運ばれていた。メニューには、終りにちかいページに、中華ソバや焼飯の項目もあるが、やはりこの種の店で、ラーメンやチャーハンだけを注文するのは場違いといえよう。市川駅前の中華ソバ屋で、鱶の鰭や|海鼠《なまこ》の料理を注文するのが場違いであるのと、似ている。  鱶の鰭の煮込みが上出来で、私は熱心に食べていたのだが、ふと気付くと大学生が一人、隣の卓に坐ったところだった。学生服に折鞄を持ち、無帽である。身なりは|見窄《みすぼ》らしくはないが、富裕な家庭の子弟ではないことが分る。|贅沢《ぜいたく》をして、五目ソバでも食べようと考えて、この店の扉を押したことが分る。 「困ったことになったぞ」  と、私はおもった。  二十年ほど昔、私自身が学生の頃、こういう立場に追いこまれたことがあったような気持になった。記憶を探ったが見つからない。しかしその気持だけは鮮明である。  椅子に坐った青年の横顔が見える。  やや気取った手つきで、メニューを開いた。間もなく、横顔が緊張してゆくのが分った。メニューには、料理の金額が記入してある。ところどころ「時価」と書いた項目もある。金のないとき、「時価」という文字を見るのは厭なものだ。私の体験では、それは、途方もなく高価、という替りの文字としてしか、眼に映ってこない。  青年の指が、メニューのページをめくった。頬から顎にかけて並んでいる|面皰《にきび》の痕が、目立つ。彼は自分の置かれた事態を察したようだ。同じページを眺めているその時間が、ひどく長く感じられた。  もしも私が彼だったら、どうする。椅子から立上り、 「勘違いをして入ってしまったから、帰る」  と言い残して、戸口に向かおう。財布に金が乏しいのは、恥ずべきことではない。場違いの場所で、なんとか|辻褄《つじつま》を合せようとするほうが醜態になる。しかし、そうと分っても、私が彼だとして、そのように|闊達《かつたつ》に振舞えるだろうか。振舞いにくい年頃といえる。  それが出来ないとすれば……。彼の手にあるメニューを、あと二枚ほど繰れば、中華ソバの項目が出てくる。なるべく安いソバだけ注文しても、拒否することは店の側としてはできない。  しかし、彼はメニューを閉じて、白いテーブルクロスの上に置いた。 「馬鹿」  と、私はおもった。刺戟的気分になっているのが分る。あらためて、彼の面皰の痕に視線を当ててみる。残酷な興味も動いているのに気付いた。  彼は、女給仕を呼んだ。 「なにか、麺類はありませんか」  よろしい、その調子で頑張りたまえ、と私はおもう。その言い方に気取りがあるのが気にかかるが、そのくらいはやむをえまい。  女給仕は背をかがめて、卓の上のメニューを開いた。メニューの上に指を当て、そのままの姿勢で顔を彼の方に向けて何か言っている。その恰好から、親身の感じが漂った。  一区切りついたと私はおもい、自分の料理の皿に戻った。  白い陶器の碗に入ったソバを食べ終り、青年は折鞄を提げて、出口に向った。その鞄は、それまで彼の椅子の傍の床の上に置いてあった。  出入口の横に、勘定場があり、レジスターのうしろに少女が坐っている。  白い細長い紙片と一緒に、小額紙幣が二枚、少女の前に置かれた。じつに素早く、置かれた。少女が紙片を調べ、何か彼に話している。彼は頷いて、ポケットを探りはじめた。  勘定場と私の卓との間には、かなりの距離があるのに、青年の様子を|仔細《しさい》に眺めている自分に、ふと嫌悪の気持が動いた。しかし、私の中にある記憶が私を刺戟しつづけ、眼が彼から離れない。  その記憶……。そのとき、私は雑誌記者をしていた。原稿の催促のために、国電に一時間ほど乗って、近県の町で降りた。降りたその場で帰りの切符を買ったのは、どういうつもりだったのか。思い出せないが、虫が知らせたということかもしれない。  用件を済せ、駅前の喫茶店に入って、コーヒーを飲んだ。はげしい空腹を覚えたので、ケーキを注文した。酒に興味をもっていた時期で、喫茶店でケーキを食べるのは、何年ぶりのことだった。  食べ終ったとき、ふと厭な気持がした。ポケットの金をかぞえると、五円足りない。残っている金の額は、いつも頭に入っている筈なのに、五円足りないのである。どこかで計算違いがあったようだ。はじめての町で、馴染のない喫茶店である。  勘定場へ行き、事情を話した。レジスターのうしろにいる少女は、黙って私の顔を見ている。咎める眼ではない。呆れたような、事情がよく|嚥《の》み込めないような眼である。五円硬貨一つのために、そして甘ったるいケーキのために、こういう状況になったことが私を腹立たしくさせ、やがて気持が滅入りこんだ。  ……そのときから十五年後の現在、勘定場の前に立った彼は、ポケットを探っている。  やがて、何枚かの硬貨を|掴《つか》んだ手が少女の前に置かれ、彼は無事にその店を出た。少女は近くに立っている同僚と眼を見合せ、笑い顔になり、ゆっくり胸を撫でおろす手つきをしてみせた。  少女の気持は、青年に味方している。しかし、その心の片隅には、高級料理店の一員という立場から出てくる優越感に似たものがある。「間違って飛び込んできて、手数がかかって仕方がないわ」という心持が含まれている……。そういうことを感じさせる少女の素振りだった。そして、その少女に、私の気持も似ていたかもしれない、とおもった。 「あの青年の食べたソバは旨かったろうか」  あとになって、時折、私はそういうことを考えてみる。旨いものでも、旨いと感じる気持の余裕がなかったのではあるまいか、という意味である。  しかし、他人の心は計り難い。あの青年は、私が観察して判断したのとは全く違った心の動き方をしていたのかもしれないのだ。  たとえば、こういうことがある。  美しい女と連れ立って、レストランへ入る。光るように白いテーブルクロスのひろがりを|挟《はさ》んで、向い合う。やがて、皿に載った料理が眼の前に置かれる……。その情景をおもい浮べると、困った気持になる。それは恐怖に似た感情といえる。レストランの入口を素通りして、歩きつづけていたほうがよい、とおもう……、私の人生のうちでそんな一時期があった。  それがどんな時期か、はっきりしている。思春期の、童貞のままでいた時期のことだ。  ものを喰うという行為には、常に|剥《む》き出しの感じ、なまなましい感じがつきまとう。そう感じるのは今でも同じだが、童貞の頃には、女と一緒のときにそのなまなましさと向い合うことに耐えられない。  口を開くと、赤い粘膜がある。その中に、獣の肉などを押込み、顎の骨をがくがくと動かして、やがて咽喉の方へ食物を移動させる。咽喉の肉がぴくりと上下して、唾液と混ってぐちゃぐちゃになったものが胃の中に落込む。待ち構えた胃は、黄色い液をそそぎこみながら、その全体をもくもく動かしはじめる。そして、やがてそのドロリとしたものが、胃から腸に送りこまれるわけだが、何メートルもの長さの腸管の末端の方には、すでに滋養分を吸い上げられた食物の|滓《かす》、つまり|糞便《ふんべん》がぎっしりつまっている。  食事をするときの剥き出しのなまなましい感じは、どこか性行為に似ているところがある。童貞が、美女と向い合って食事をすることに、困惑をさらには恐怖に似た感じを覚えるのは、当然のことといえよう。  当然のことといえよう、と私はおもうのだが、しかしすべての童貞が女を伴ってレストランに入ることに恐怖を感じるかどうかは、きわめて疑わしい。他人の心は計り難いのである。 「あのソバは旨かったろうか……」  時折、あの青年のことを思い出し、想像がふくらむ。そして、しばしば青年と私自身が|擦《す》り替る。  しばらく経って、私があの中国料理店に行くと、卓を囲んで声高に話し合っている青年たちがいた。酔いを含んだ声で、卓の上にはビールの瓶が五本ほど並んでいる。青年の数は五人、銘々の前に、白い陶器の碗に入った中華ソバが一つずつ置かれている。  それは、私の空想の中の光景である。  もちろん、青年たちの一人に、あの大学生がいる。 「どうだ、この店のソバは旨いだろう」  彼は得意気に言う。 「中国からきた腕のいいコックがつくったんだ」 「でも、すこし高いね」 「それはラーメン屋のようにはいかない。店も綺麗だし、テーブルクロスもまっ白だ。この前、偶然おれが発見したのだ」 「たしかに新発見だな。今度のコンパはこの店でやるか」 「賛成」  こういうことが起らない保証はない。もしそういう場面に立合ったら、私はあの青年の無神経に顔を|顰《しか》めるだろう。しかし、形は違っても、私自身その種の無神経をこれまでの人生で一度も犯していないとはかぎらない。 「あのときは……」 「ひょっとして、あのときに……」  耳の奥でささやく声が聞えてくる。また、全く私の気付いていないいつかに……。  しかし、卓を囲む青年たちの光景が、無神経とは違う気持に支えられて、しかも全く同じ形であらわれる場合も考えられる。  不意に、青年が立上って、私の卓に近寄ってくる。 「あなたは、この前のときもいたな」  と青年が私に言う。 「そうだ、いた」 「あんたの批判する眼つきが、気に喰わないんだ」 「批判はしていない。見ているだけだ」 「その観察する眼が気に喰わない」 「どうだ、この前のときのソバは旨かったか」 「旨くない、味がなかった」 「今日のソバはどうなんだ」 「そういう質問をするところをみると」  と、青年が言う。 「すこしは分ったようだな。今日、おれたちがここにいる意味が」 「よく分らないね」 「教えてやろう」  青年の眼が血走っているが、それは酔いのためだけではないようだ。彼は言葉をつづける。 「この店を、爆弾を仕かけてぶっ毀してやりたい。そんな気持で、いま騒いでいる。こんな気詰りな店は、ぶっ潰したほうがいいんだ」 「この店を爆破したところで、何の意味もありはしないよ」 「意味はある」 「ないね、君はまだ若いな。若いのは結構だが、自分を分析することができないのはよくない」 「なにを」  青年の白目のところが赤く燃え、卓に引返すと、ビールの|空瓶《あきびん》を逆手に掴んだ。ビール瓶を振上げて、私に殴りかかろうとする。 「おいおい、おれはむしろ君の味方じゃないか」  私はその腕をおさえて言う。 「敵を間違えてはいけないぞ」 (一九六五年)  香 水 瓶  廃業した娼婦の話を、書こうとおもったことがある。いわゆる赤線地帯がまだ廃止されていない頃に時代設定をして、その地帯から外の社会へ出た娼婦を主人公とする。しかし、ようやく外へ出ることができた彼女に、元の場所へ引戻す力が少しずつ動きはじめる。外の社会が彼女の前身を嗅ぎつけて、弾き出し押戻そうとする……、そういう力も動かないではないが、それは決定的な力ではない。  最も大きなものは、彼女自身のなかに|潜《ひそ》んでいて、彼女を元の場所へじわじわと追いやる力である。その場所での生活は、外の社会から見れば異常であるが、彼女にとっては日常生活といえるものになっていた。その日常生活のあいだに彼女の細胞に滲みこんでしまったものが、彼女の理性を圧倒する強さで彼女の躯に働きかける。そして、彼女はしだいに元の場所に引寄せられてゆく……。その根強さ、おそろしさを描いてみたい、とおもった。  そのテーマの具体的な裏付けを採集したい。そのために、私は何をしたか。「|蛸《たこ》の話」という短篇の一部で私はそのことに触れた。その部分を引用してみる。  ある日。私は、あるビルの地下室へ通じる階段を降りていった。  その地下室にある喫茶室に、むかし馴染んだ娼婦が勤めているという噂を耳にしたからだ。  懐しい気持もあった。どのようにして勤めているかという不安もあった。と同時に、材料が拾えまいか、という下心もあった。  彼女は、レジスターのところに坐っていた。思いのほか、気楽そうに勤めていた。  店が終ってから、会おうということになった。  数十分経って、別の喫茶店で私は彼女と向い合って、雑談を取りかわしていた。  彼女の顔にも、懐しそうな表情が浮んでいた。くつろいだ雰囲気だった。私は雑談の中に、一つの質問を挿んだ。不意に、彼女の顔が引きしまり、椅子の上で居ずまいを正した。そして、切口上で、こう言ったのである。 「わたしからは、もう何んにもタネは出ませんわよ」  それから数ヵ月経ったある夜、私はまたしても、彼女の喫茶室への階段を歩み降っていた。どうしても、訊ねたい事柄があった。そのとき書いている小説のために、必要なのである。  私の上着の右ポケットには、舶来の香水瓶、左のポケットには女もちのライターが入っていた。階段を降りながら、私はポケットの上から、その品物に触ってみた。これらの品物を渡すことは、彼女を侮辱することになるかもしれない。一層、立腹させることになるかもしれない。  そう危ぶみながらも、私はそれらの品物を彼女に手渡すつもりで、ゆっくり階段を歩み降っていった。  その二つの品物を手渡したとき、どういう反応が起ったか。  彼女は、素直に喜んだ。 「わたしの使っている香水、覚えていてくださったのね」  私は戸惑った。タブーという香水である。私は香水についての知識をほとんど持たないし、彼女の常用の香水について考えてみたこともなかった。「タブー」を邦訳すれば「|禁忌《きんき》」とでもなろうか。香水売場で、その名が私にほとんど無意識のうちに働きかけ、その品物を選び取らせたといえよう。  正直に答えることにした。 「じつは、知らなかった。当てずっぽうに、買ってきた」  彼女の顔に、失望の色が浮んだわけではない。 「でも丁度よかったわ。香水が無くなりかかって、買わなくては、とおもっていたところなの」  贈物に、香水とライターを選んだことに、とくに意味があったわけではない。|嵩《かさ》ばらぬ小さな品物、ということと、私の収入としてはかなり高価な買物ということで、選んだわけだ。しかし、この会話で、焦点が香水に合った。その「禁忌」という名が、私の気持に強く絡まった。  躇らいが起った。私の質問したいことは、彼女にとって禁忌とおもえる。それを質問することによって、せっかくの贈物を、下心のある不潔な品物に変えたくない。  しかし……。赤線地帯が廃止されてから、一年経った頃のことである。元の場所に押戻されることは、もう起らないのだから……。やはり、その質問を口にすることはできず、 「店が終ったら、酒でも飲もうか」  と、私は言い、彼女は|頷《うなず》いた。  喫茶室が閉まるまでの約三十分を、私は街の書店で過すことにした。棚に並んでいる書物の背を眺め、ときおり抜き出して内容を調べてみる。  やがて棚の隅に、『世界童謡集』という背文字を見付けた。 「この本が、新しく出たのか」  呟きながら、その書物を手に取り、ページを繰ってみた。自分の書棚に、私は一冊の同じ書名の本を持っている。古本屋で見付けたものだ。その書物に収められた童謡に触発されたいくつかの短篇が、私の作品群のなかにある。  懐しい気持でページを繰り、内容を調べた。私の持っている書物とは、かなり内容が違っていることが分った。そのうち、一つの童謡が私を捉えた。「悪魔」という題である。 『朝お|寝床《ねど》から起きたら  手を洗って目をきれいになさい。  それから  よく気をつけるんですよ。  洗った水を遠くへ  捨てないように。  だって捨てた水が  光っているうちは  悪魔がそこに  ちゃんといますから……』  その童謡の中から、彼女の姿が立現れてきたのだ。外の社会で、彼女は朝起きて、顔を洗う。水道の蛇口の下に洗面台のある現代では、井戸端と洗面器にたたえた水とは比喩として存在するわけだが、ともかく顔を洗った水にも悪魔は身をひそめている。あの地帯での長い間の日常生活の習慣の記憶が、彼女の細胞の中で揺れ動き、刺戟し、彼女の心に呼びかける。  水の入った洗面器を躯の前で支え、遠くまで捨てに行く。捨てた水が眼に映らないように、捨てに行く。あるいは、排水孔の中に|零《こぼ》さぬようにゆっくり注ぎ込む……。そのくらいの慎重さが、彼女にとって必要なのだろう。 「やはり、質問するわけにはいかない」  と呟いて、私は書物を閉じ、元の場所に押込んだ。  一時間後、小料理屋の一室で、私は彼女と向いあって坐っていた。  酒の酔いが、彼女の眼のまわりをわずかに桃色に染めている。私も、躯の奥に酔いを覚えはじめた。 「黒田さんは元気かな」  と、彼女のパトロンの名を口に出してみた。私のまだ会ったことのないその中年男は、以前から変らず彼女に親切である。彼女を外の社会へ引出して、現在の場所に置いたのは黒田である。彼女がレジスターの前に坐っているのは、その喫茶室の責任者の位置を与えられているということだ。 「相変らず、元気です」 「きみも、今度は大丈夫だね。もう落着いたろう」  黒田は二度彼女を外の社会に引出し、二度とも彼女は元の場所に戻ってしまった。今度が、三度目なのである。  彼女は黙って笑顔を示した。つくった笑いで、眼が|眩《まぶ》しそうなのは、恥じらいのためだ。 「たとえ大丈夫でなくなっても、もう引返す場所がないからね」 「…………」 「しかし、無くなってしまったあの場所のことを考えると、懐しい気持が起ってくるなあ……。男の自分勝手な気持かもしれないが」  不意に、彼女の皮膚を、身近に感じた。着物に包み込まれた彼女の皮膚が、私の頭の中で|剥《む》き出しになり、その暖さを自分の体温のように感じた。畳の上に置かれた食卓の向う側に、彼女は坐っている。あの地帯の彼女の部屋で、私はたくさんの時間を過した。切れ切れの時間だが、寄せ集めると、かなりの分量になる。その頃の記憶が、私の躯の底から滲み出てきた。  眼が光るのを、私は感じた。間もなく立上って、食卓の向う側にまわり、彼女の両肩を二つの掌で挟みつけることになる……。立上ることを抑制しても、それは無駄だ、と感じ、坐っている膝頭とふくらはぎに力の籠りかかるのに気付いた瞬間、彼女が立上った。  私の気配に気付いて立上ったことは、瞭かだった。私が立上っていれば、彼女は身を避ける動作に移る筈のものだったが、私はまだ坐ったままだ。彼女の動作が一瞬戸惑い、風に吹かれたように窓ぎわに移動すると、窓の外の風景に眼を放った。  私は立上って歩み寄り、彼女のうしろに佇んだ。彼女はわずかに身を避ける素振りになって、言った。 「ネオンサインが、たくさん見えるわね」  それは、答える必要のない無意味な言葉である。私は、彼女の肩に手を置こうとした。彼女ははげしく身を捩らし、強い声で言った。悲鳴のようにも聞えた。 「やめて」 「どうして」 「…………」  念を押すように、私は訊ねた。 「喫茶室に勤めはじめてから、浮気は一度もしたことがないのか」 「無いわ」 「どうして」 「一ぺんで崩れてしまうもの」 「…………」 「手助けして」  と彼女が言い、私はそっと肩から掌を離した。捨てた水が光っているうちは、悪魔がちゃんとそこにいますから……、という童謡の文句を思い出していた。  最初用意していた質問を口に出すことを、このとき私は完全にあきらめることにした。  一年経ったある夜、私は香水瓶をポケットに収めて、喫茶室への階段を降りていった。 「よかったわ。残りが少なくなっていたので、そろそろ買わなくては、とおもっていたの」  と、彼女は言った。  私は、彼女の仕事が終るのを待ち、一緒に酒を飲み、当りさわりのない世間話をして、別れた。  また一年経ち、私は香水瓶をポケットに入れて、彼女に会った。 「この香水瓶、丁度私の一年分あるのね。前のが無くなりかかっているから、姿をあらわす頃だとおもっていたわ」  と彼女は言い、それから後の時間は、前の年と同じに過ぎた。  さらにまた、一年経った。 「一年に一度、会うわけね」  香水瓶を受取りながら、彼女が言った。 「もう居なくなっているかもしれない、とおもいながら、階段を降りて行くんだ」 「わたしは、いつまでも居ますわ」 「えらいね。きみもえらいが、黒田さんもえらいとおもうな」 「さあ。……結構、打算もあるのよ」  気軽に夫の悪口を言う妻の口調に似ていた。同時に、あの地帯の一流の娼家で、長い間お|職《しよく》を通していた女の誇りの高さも、その言葉から感じられた。また、一方的に恩恵を受けているわけではない、社会事業家を褒めるような言い方はしてもらいたくない、と私を咎めている言葉でもある。  また、一年経った。 「こういう茶飲み友達みたいな相手も、いいものでしょう」  と彼女は言い、私の顔をたしかめるように眺めると、 「相変らず、悪いことばかりしているの」 「まあ、ね」 「よく倦きないわね」 「きみは、とっくに倦きてしまっているわけか」 「そう……」  彼女の視線が宙に停った。いま彼女が当時の生活を思い浮べていることは、瞭かだった。すぐに、その記憶を追い払うだろう、と私は様子を窺っていたが、いつまでも彼女の視線は宙にとどまっている。 「倦きてしまったわけか」  もう一度、私は声をかけた。眠りから呼び醒まされたような眼で、彼女は私を眺め、 「え、……まあ、ね」  と言い、不意に思い付いたように訊ねた。 「血液検査をしたことありますか」 「検査って、血液型のか」 「違うわよ」 「梅毒の検査か」 「ええ」  私は、あらためて彼女の顔を眺めた。この五年の間に、その種の話題が出たことはなかった。以前の生活を思い出させるものは、危険な話題としてすべて避けられてきた。何が彼女に起ったのか。 「半年ほど前に、してみた。念のために、ときどきしてみることにしている」 「それで……」 「マイナスだったよ。三種類の方法で検査して、みんなマイナスだった」 「そう、それはよかったわ」 「よかった……」 「わたし、出たの。治ったつもりだったのが、一年ほど前に出たのよ。今度は本格的に治療して、すっかり治してしまったけれど」  むしろ淡々とした口調で、彼女は言う。私は笑いながら、言ってみた。 「いつか、きみの肩に手を置いたら、手助けして、と言って断ったことがあるね。しかし、躯の中に潜りこまれては、断るわけにはいかないな」 「断る……」 「つまり、当時のことを|否応《いやおう》なしに思い出さされてしまうという意味だ」 「そうなの、すっかり、おさらいをさせられてしまったわ。でも、そんなになまなましく思い出しはしなかった」 「そうか、子供のころ集めた絵葉書を見ているみたいか」 「ほんと。治療が終ったときには、絵葉書みたいに見えたわ。だって、もう長い時間が経っているのですものね」  あの地帯での生活情景が、彼女にとって古い絵葉書のようなものになってしまっているのなら……。 「あの質問をしてみようか」  と私は呟いたが、すでにその質問に興味がもてなくなっている自分を知った。私はポケットから濃い焦茶色の香水瓶を取出し、「禁忌」と邦訳できる名前をたしかめながら、 「来年には香水を変えてみたらどうだろう」  と、言った。 (一九六四年)  暗 い 宿 屋  その建物には、門が二つあった。しもたやを旅館に改造した建物で、一つはその旅館の門である。  もう一つは、やや小さめの門で、柱に「|箏曲《そうきよく》教授」の木の札が掲げられてある。そして、女たちは、この門から入り、この門から出て行った。  心得て門をくぐってきた客が、部屋に収まると、|女将《おかみ》は女たちのうちの適当な一人に電話をかける。「箏曲教授」側の一部屋に、すでに女が待機している場合もある。そういう場合にも、女将はすぐにはその女を客の部屋に送り込むことをしない。わざと二十分ほど時間を置いてから、女を客の部屋に案内する。  コールガールというからには、電話をかけてわざわざ呼び寄せた、という趣向が必要である。この建物の一部屋にすでに女がいて、ひょいと立上ってやってきた、という安直な感じは避けなくてはならぬ。 「タクシーで急いでくるように申しておきましたから、もうしばらくのご辛抱ですよ」  という口上を聞いた客は、勘定が高いのも已むを得ぬところだ、と覚悟する。  客は欲望を消してから、部屋を出て風呂場へ行く。女を誘えば女も一緒に入ってくるが、風呂から出て客が部屋に戻ってきたときには、部屋の情事の痕は全く消し去られている。女のいた気配もなくなっている。夜具は押入れの中に姿を消し、女の衣服やハンドバッグも跡かたもない。  それが、この家のきまりである。  女は客の部屋には姿を現わさず、最初の部屋に戻っている。女将が客から金を受取り、その割前を渡してくれるのを待っている。金を受取ると、そのまま帰ってゆく女もあり、部屋に居残って新しい客の来るのを待っている女もある。  したがって、女同士がその部屋で顔を合すことも、しばしばあった。  その部屋に、京子が戻ってくると、啓子と杉子がいた。  隣の部屋は女将の居間になっていて、そこから琴の音が聞えてきた。以前は、実際に弟子を取って教えていた女将も、商売が忙しくなったので琴の方はやめてしまっている。いま聞えてくる音は、テープレコーダーから出てくる音で、実際に教えていたときの音をテープの裏表一時間分、録音してある。「箏曲教授」の木の札を掲げ、若い娘が出入りしているからには、近所に琴の音も聞かしておかなくては具合が悪い。  啓子という女は、目鼻口一つ一つの形は尋常だが、全体として魅力がない。色が白く肉付きもよいが、その肉付きに潤いがない。女の肉というよりは、カマボコを連想させる。つまり、男の眼から見ての色気というものがないのが、男に縁がない理由であろう。そのくせ、当人は色気を十分持っていて、その色気の持って行き場所に困っている感じの女である。  啓子は、最初は女将に琴を習いに通っていたが、そのうちコールガールとしてスカウトされた。一目見れば、スカウトが出来るか出来ないか見分けが付く、というのが女将の言であるが、啓子を見ていると、その言葉が成程とおもえてくる。  女将が部屋に入ってきた。金を受取った啓子が帰ってしまうと、女将が京子に言った。 「京ちゃん、もう一度、どう」 「ちょっと疲れたけど……」 「嘘、あんたが疲れるわけがないでしょ」  女将はその言葉に、「あんたのような好色なひとが」という意味を含めて馴れ馴れしく言い、京子は含み笑いをして黙っていた。  京子はその含み笑いが承諾の返事のつもりだったし、そのことを女将が分らぬ筈がないのに、 「良いお客なのよ。料金は特別に五割増にしてあげます」  と念を押すように言った。その言葉は、傍に坐っている杉子にも言って聞かせているようにもおもえる。女将は何か|魂胆《こんたん》を持っている、と京子はおもうのだが、その魂胆の中身は分らない。  そこで、京子はわざとはっきり返事をしてみた。 「ええ、いいわ」 「ありがと。それじゃ、杉子さん……」  京子は女将の顔を見た。名前を言い違えたのか、とおもったのだが、女将は杉子の顔を見詰めていて、促す調子でもう一度言った。 「それじゃ、杉子さん……」  杉子は怪訝な表情になっている。 「杉子さん、京ちゃんと一緒に行ってください」 「一緒に……」  女将は京子の方に顔を向けて、 「京ちゃん、藤の間ですよ。ちょっと変った趣味のお客でね、いいわね」  そう言うと、京子を見詰めたきり、杉子には視線を移さない。「そうか、そういうことか」と京子は合点し、「そういう経験も一度はしてみてもいいわ」とおもい、杉子の怯えた横顔をみて、「この人と一緒なら、いいわ」とおもった。  京子の口のまわりに微笑が浮び、それがふてぶてしく見えた。京子は二十一歳で、杉子は五歳ほど年長なのだが、このとき、二人の女の年齢は逆にみえた。  以前から、京子は杉子に関心を持っていた。時折、部屋で顔を合せる程度で、親しく口をきいたこともないが、杉子の暗い翳に惹かれた。もっとも、この家に集る女たちは皆、暗い翳を持っていたのだから、杉子が美人であることがその暗い翳を引立てて、一層意味ありげにみせたのかもしれない。  あるいは、杉子について耳に這入ってくる噂ばなしの断片が、その翳と混り合って、京子の興味をそそったのかもしれなかった。  杉子は、女将が職業安定所のまわりで網を張っていて、スカウトした女である、という噂である。  杉子は夫に死に別れ、残された子供を育てるために、堅気の職業を探して生きて行こうとしていたわけだ。躯や媚を売らずに、生活費を稼ごうとして、身のまわりのものを売り尽したみすぼらしい恰好で、職業安定所の門の開くのを待っているときに、女将が声をかけた。  女将が声をかけたということは、杉子の堅く|鎧《よろい》を着た躯の底でうごめいているものを見抜いていた、というわけなのだろう。  杉子は、見かけは慎ましいが、ひどく好色だという噂も、京子の耳に届いている。  いま、杉子は躯を堅くして、畳の上から動こうとしない。しかし女将は落着いて、袂からタバコの箱を取出した。結局、杉子は断りはしない、と見抜いている顔つきである。 「杉子さん、行きましょうよ」  京子は甘える口調で、杉子の手を握り、引張った。杉子の掌は、生あたたかく汗ばんでいた。  藤の間の客は、痩せた、まだ若い男だった。京子は、その客に見覚えがある。前に一度、この家で会っている。 「やあ、君か、丁度いい」  と、男は言った。 「あんたなの、物好きは。もっとお爺ちゃんかとおもっていた」 「やはり、こういうことは一度はやってみなくてはいけない」  男はまじめくさった口調で言い、 「しかし、一度だけにしておかなくてはいけない。こういうことは深入りすると、どこまでも深入りしてゆくことになるからな」 「なによ、理屈っぽい」  京子が笑いながら言い、男も笑い出して、 「とにかく、一ぱい飲もうじゃないか」  と、テーブルの上のウイスキーの瓶を顎でしゃくってみせた。 「あんた、杉子さんと会ったことあるの」 「いや、はじめてだ」  男は杉子にあらためて視線を向け、満足そうな顔つきになった。 「ユカタに着替えた方がいいでしょう」  と、杉子に対しては、丁寧な言葉づかいである。 「そうね」  京子は浴衣を取上げた。杉子は部屋の隅で壁の方に向いて、浴衣を羽織って、巧みに洋服を脱いでゆく。シュミーズを足もとにずり落し、しばらく考えてブラジャーも脱して、浴衣姿になった。  三人は、テーブルを囲んで坐り、男は女たちのグラスにウイスキーを満たしながら、京子に訊ねた。 「ところで、君、こういう形は、経験あるのか」 「それが、無いの」 「めずらしいね」 「あんたは、あるの」 「ぼくは無いさ」 「心細いわね」 「大丈夫だ。きのう、長い時間かかって、設計図を作ってみた。模型ヒコーキでもなんでも、まず設計図が肝心だ。よく飛びそうな青写真ができたから、安心して委せてくれたまえ」  そういう会話を聞きながら、杉子はテーブルの上のグラスを掴むと、顔を仰向けて強い酒を一息にあおった。  堅く|瞑《つむ》った杉子の眼がゆっくり開かれたとき、男が言った。 「それじゃ、はじめようか」  杉子は眼を堅く瞑って、仰向けに躯を横たえている。  男の手が、京子の躯を、|俯《うつぶ》せにして杉子の上に重ね合せた。そして、そのままの形で、男は京子と交尾した。  男は、京子の背に体重をかけず、また杉子の躯にも少しも触れることなく、京子と交尾をつづける。  京子の中で興奮がしだいに|昂《たか》まり、無意識のうちに自分の下の杉子の躯を抱き締める形となった。自分の快感が密着している杉子の躯にしだいに染み透ってゆくのを、京子は感じた。自分の|悶《もだ》えが、硬直したように横たわっている杉子の躯を揺すぶり、滲み出てくる汗と脂が、杉子の躯に京子を貼り合せた。  やがて、京子の快感が拡散しはじめたとき、京子は杉子の躯が火のように熱くなってきたのに気付いた。杉子の両腕が京子の背を、烈しい力で締め付けた。  そのとき、男は京子から離れ、傷口に貼り付けた|絆創膏《ばんそうこう》を引きはがすように、京子を杉子の躯の上から引離した。  一人になった杉子は、ふたたび硬直して横たわっている形になったが、今度のその硬直は烈しすぎる刺戟と期待のためのように、京子にはおもえた。それは、半ば引きつったようになっている杉子の表情をみれば、一層よく分る。  男は、杉子の髪に手をかけて、その杉子の顔を京子の方に捩じ向けた。それが、男が杉子に触れた最初である。そして、男はふてぶてしく、京子に言った。 「おい、良い顔をしているじゃないか」  ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………  男が杉子から離れると、彼女はしばらく四肢を投げ出して横たわっていたが、不意に立上ると浴衣を纏い、顔を両手でおおうようにして部屋を出た。やがて、女中が杉子の衣服を取りに部屋に這入ってきた。  一方、京子は平素よりも余計に好色になり、笑い声をたてながら、男とふざけつづけた。  その夜から一年後、ある私鉄の沿線駅前のスタンドバーで。  ジャンパーにサンダル履きの軽装で、近所に住む青年たちがスタンドに腰かけ、酒を飲みながら女と気軽な言葉をやりとりしていた。 「マダムは、今日は休みかい」 「いいえ、もう間もなく来る筈よ」 「ここのマダムは前から、休みが多いからなあ」 「でも、このごろは毎日、ご出勤よ」 「だけど、遅刻ばかりじゃないか」 「それは仕方ないわ」 「どうして」 「あら、知らないの、結婚ばなしが持上ってるのよ。マダムも大分気に入っているようで、しょっちゅうデートなのよ」 「ちえっ、どんな奴か知らないが、うまくやってやがる。おれ、一度マダムと寝てみたかった」 「それじゃ、プロポーズしてみれば、いいじゃないの」 「駄目だよ、ここのマダムは言うことはあけすけだが、身持は堅くて歯がたたないや」  そのとき、女が奥の方を|透《すか》してみるようにして、言った。 「噂をすれば影が射す、だわ。マダムがご出勤よ」  そして、京子が青年たちの前に姿を現わした。 「マダム、結婚するんだって」 「どうしようか考えてるのよ、面倒くさい気もするし」 「あんなこと言ってる」 「本当よ、結婚なんかしたくないんだけど、一度してみておいてもいいとおもうのよ」 「結婚したら、店はどうする」 「しばらく休んでみようかとおもってるの」 「へーえ、相手は金持なんだな」 「金持じゃないけど……」  京子の相手は、金持の中年男ではない。見合いで知り合った五つ年上のサラリーマンである。しかし、結婚すれば、バーを閉めても、食べて行ける。蓄めた金もあることだし。  しばらく休養してもいいわ……、とおもったとき、不意に京子は疲労を感じ、この数年間を顧みる気持に捉えられた。  高校を出たばかりのとき、不良染みた級友に、あの家の存在を教えられた。小遣いの欲しさと好奇心で、出入りするようになった。女子大生と、女将は京子を客に紹介していた。  気の向いたときに、あの家の小さい方の門をくぐり、部屋で待っていると、必ず客が取れた。快感を知るまでに、半年かかった。そのときから、京子はその家に通うことに熱心になり、金を蓄めることも熱心になり、二年後に小さなスタンドバーの権利を買った。  マダムになってからも、しばしばあの家の門をくぐった。店では、一切浮気はしなかった。身持の堅いマダム、パトロンのいないマダム、ということで通っていた。長い間、稼いできた。金銭と無関係な男女関係のなかで、しばらく休養してもいい……、そういう考え方で、京子は自分の気持を整理することにした。  女将に、京子は結婚することを告げた。そして、大小二つの門を持つ家から、京子の姿が消えた。  ある日曜日、あるいは夫となるかもしれぬ男と連れ立って、京子はデパートに行った。  エレベーターで最上階に昇り、扉が開いた瞬間、そこに女将が立っているのを京子は見た。怯えに似た感情が起り、隠れよう、とおもった。 「あら、京子さん」  女将は笑顔をみせて呼びかけた。京子の連れの男の存在も見落していないようだった。彼は少し離れたところに佇んで、待つ姿勢になった。  笑顔のまま、女将は恐い眼つきになり、小声で言った。 「なにも、話を毀そうというわけじゃないから、安心していなさいよ……。そんな顔をして」 「あら、そんな顔なんて、あたし、べつに……」  女将と自分とが立ち話をしている様子には、第三者からみて疑わしい点はない筈だ、と京子ははじめて思い当った。  狼狽していた自分を知り、無事に結婚してしまうことを切望しているのだろうか、と、心の中を覗いてみる気持になったとき、女将の声が聞えた。 「杉子さんが死んだわよ。それをちょっと知らせておきたいとおもって、声をかけたの」 「えっ、死んだ……、どうして」 「首をくくって、死んだのよ。信州の方の松林の中で……」 「でも、どうして」 「どうしてかしらねえ……。思い当ることは、なにも無いわ。商売も、熱心に身を入れてやっていたし……」 「そう」 「京ちゃんは大丈夫ね。でも、もしうまくいかなくなったら、また戻っていらっしゃいよ」  笑顔のまま女将は京子の耳もとでささやいて、去って行った。  京子は、一瞬、ぼんやりしてその場に取残された。  その僅かな時間に、杉子の躯に滲み込んでいった京子自身の脂と汗、そして突如燃え上った杉子の躯の|火照《ほて》りが、なまなましく京子の躯によみがえってきた。つづいて、松の木に吊り下った杉子の死体が眼に浮ぶ。それは、二度と熱くなることのない躯だ。  記憶をすべて暗い部屋の中へ投げ込み、重い扉で塞ごうとするのに似た気持で、京子はおもった。 「やはり、はやく結婚してしまおう」  過去に引込まれていた時間の長さを測るように、京子はあたりを見まわし、急いで連れの男の傍へ歩み寄った。 「待たせてしまったかしら」 「いいや、それ程でもない。いまのは、どういう人」 「お琴を習っていたときのお師匠さんよ」 「おや、きみが琴が弾けるというのは、初耳だね」 「弾けるというほどじゃないわ」  男は、疑いの翳の少しも無い口調で、 「今度、聞かせてください」 「だって、習っていたのは高校のころですもの」  京子は一瞬|目蓋《まぶた》を堅く閉じ、その裏側に浮び上りかかったものを払いのけるように勢よく開いて、 「もう、すっかり忘れてしまったわ」  と、言った。 (一九六二年)  探  す  三上は、友人の野村と、繁華街の裏手に在る地下室の酒場にいた。  雑談のあいだに、女給、当世風の呼び方でいえばホステスが、こう言った。 「あたし、驚いちゃったわ。この前、お店の女の子五、六人と集っておしゃべりしていて分ったんだけど、みんな一度は自殺|仕損《しそこな》っているのよ」  三上は店の中を見まわした。大きくも小さくもない店で、女給の姿が二十人ほど見える。 「その割でゆくと、ここから見える女の子も、ほとんどそういうことをやった経験の持主ということになるかな」 「そういうわけね」  意外なことを聞かされたという気持は少しもしないのだが、あらためてその事実を考えてみて、三上はいくぶん異様な心持になった。 「それで、きみは」 「あたし、あたしは、まだ無いの」  彼女は、ちょっと|羞《はずか》しそうな表情になって、答えた。 「しかし、それは、自殺仕損って、こういう商売に入ったということか、こういう商売をしているうちに自殺をやらかすということか、どっちだろう」  野村が訊ねた。 「それは、きまっていないとおもうわ。でも、ここに遊びにくる男の人たちの眼をみていると、ときどき死にたくなるわね」  彼女は、三上の眼を、咎めるように見た。 「どういうこと」 「あたしたちを、裸にして見ている眼だもの」 「そんなことはない。それはきみたちの商売に関係はないさ。男というやつは、そういう気になれば、どんな相手でも裸にして見ているものだ。かえって厚く武装できている相手にたいしてほど、そういう眼を向けるものだよ」  三上が言うと、野村も口を添えて、 「とくに男も中年になってくると、始末のわるい時間に襲われるものだ。ぼくのある友人は、短距離の女子選手が新記録を出したニュースを聞いたとたんに、もの凄い勢で前後に動いている両脚の付根のあいだで千変万化の表情を示している筈の部分のことが、頭の中に浮んだというからね」  三上はしばらく笑っていたが、 「そんなものさ。だから、きみのような考え方は、甘ったれていることになる。そんなことで死ぬ気になるとすると、お|笑種《わらいぐさ》だ。そのくせ男というやつは、惚れてしまえば、相手の裸を頭の中から追い払ってしまう。そういうときには、相手がきみたちだって、あるいは娼婦だって、裸のことなんか考えなくなる」  と、訓戒を垂れ、話をそこで打切った。  その話題から離れ、彼らはふたたびとりとめのない雑談に戻ったが、やがて野村が思い出したように言った。 「さっきの話に戻るが、バー|縞馬《しまうま》ね、あんな小さい店でも、半年足らずのうちに、二人やったね。一人はそのまま死んじまった」 「留子か、可哀そうなことをしたな。気だてのいい女だったのに。美人じゃなかったが……、もっとも、死顔はきれいだった」 「死顔、どうして死んだ顔がみれたの」  傍の女給が訊ねた。 「三上は、お通夜に行ったんだ。おい、もう白状してもいいだろう、留子と関係があったんだろ」 「それが、無かったんだ。あっても不思議はないくらいのつきあいだったが、なんとなく無かった。手も握らなかった。そのくせ、店が終ってから、ときどき一緒に飲み歩いたものさ」 「そのくらいの関係で、お通夜に行くとは義理がたいことだな」 「お通夜に行ってもふしぎはないくらい、長いつき合いだったよ。もっとも、行きたくはなかったんだ。不幸な死方をした女の遺族の顔を見たくないものね。死んでしまった人間に、心が届くものでなし」 「それなら、なぜ行ったんだ」  野村の質問は、執拗である。 「君、留子に惚れてたのかい、追及が厳しいじゃないか。彼女と関係があったのは、山川だよ」 「へえ山川が」 「ぼくも、留子が死ぬまで知らなかった。丁度そのとき、山川は旅行中でね、山川に親しい誰かがお通夜に顔を出さなくては、おさまらない形勢になったんだ。そこで、ぼくが山川の代理人を兼ねて、行ったというわけさ」 「山川がねえ」  野村が、もう一度、言った。 「言われてみれば、なるほどとおもうんだが、全く気が付かなかった。というより、考えてみなかったんだな。どうせ誰かはいることとおもっているし、|詮索《せんさく》してもはじまらないもの。もっとも、留子と一緒に飲み歩いたあと、かならず彼女がタクシーを用意して、タクシー代はぼくに払わせなかった。どういうことかとおもっていたが……」  山川という友人は、金持なのである。 「すると、彼女が死んだのは、山川が原因なのか」 「原因のごく一部ではあるだろうね。留子には、ガス自殺の癖が前からあったそうだ。生きていて、いろんな|滓《かす》みたいなものが、しだいに躯の中に蓄ってくる、それが一定の量になると、死にたくなる。そんな具合じゃなかったのかな、もともと死ぬの生きるのといった関係では、山川とは無かった筈だ……。ぼくは、死ぬ二日前に、彼女の店に行っているんだが」 「気配はあったか」 「分らなかった」  二人の男は、ちょっとの間、口を噤んだ。野村は、傍の女の剥き出しの背中に掌を当て、ゆっくり二、三度撫でおろすと、 「やれやれ」  と、嘆息するように言い、 「留子は死んじまったが、ふさ子はいまどうしているだろう」  ふさ子というのは、バー縞馬のもう一人の女給である。彼女の方は未遂で、生き返った。 「縞馬をやめてから、何軒も店を変った。移った先へ一度は行ってみたが、すぐにまたやめてしまう。といって、ぼくとふさ子と特別な関係があるわけじゃないよ。いや、あっても構わないんだが、事実はそうではない」 「先まわりして言わなくてもいい。そのことは知っているよ。だいいち、ふさ子の自殺未遂の話を君に教えたのは、おれだったのを忘れたのか」 「そうだった、このごろ物忘れがひどい」    二年前になる。その夜、ある酒場に三上がいると、あとから入ってきた野村が、こう言った。 「いま縞馬にいたら、ふさ子が手帖を出してエンピツで足し算をして、ふうふう言っていたよ。医者の払いやなにかで、どうしても金が足りない、どうしようかしら、と頭をかかえていた」 「医者の払いだって、どこか悪くしたのか」 「なんだ、知らなかったのか。この前睡眠薬をたくさん|嚥《の》んで、死にそこなったのさ。つまり、自殺未遂だ」 「そんなことがあったのか」  三上は、ふさ子の顔を思い浮べた。バー縞馬に、ふさ子が勤めはじめたとき、「あの女はいい顔をしている」と三上が言うと、友人たちは唖然として、やがて笑い出した。|扁《ひら》たい顔で、鼻は短かくて、二つの鼻の穴は正面から見える。唇は厚ぼったくて大きい。南方の土人の顔つきに似ている。眼は大きくて、暗い光を宿している。そして、まだ二十歳そこそこというのに、顔全体に荒廃の感じが漂っていた。  しかし、笑うと、鬼歯が大きく覗いて、好人物の顔になる。胸の中に、小さい容器を一つ持っていて、そこにきれいな水が少しばかり溜っているようだ。  その感じが三上は好きだったが、一方、彼女の大きく突出した胸と尻、堅く引締まってそのくせデリケートな線をみせている長い脚も、見逃してはいなかった。  三上は、ふさ子のことを、赤線地帯の娼家で働いていたことのある女ではないか、とおもっていたが、それは違ったらしい。  そのふさ子が自殺未遂をしたと聞かされて、「なるほど、そうか」と、三上はおもった。 「それで、君の前で手帖を出して計算するというのは、君に貸してもらいたい、という含みがあるのか」 「いや、そういうつもりではなさそうだ。そういうことをする女ではないだろ。おれには、最初からムリとあきらめているだろう。ふさ子が困っている恰好というのは、なんとなく滑稽で愛嬌があるな」  自殺未遂のことも、金に困っていることも、ふさ子の口から聞いたことはなかった。  ふさ子がエンピツで足し算をして溜息をつき、その恰好に愛嬌があったと聞いたとき、三上はその金を貸そうとおもった。貸す、とはすなわち、そういう名目で寄付するということだ。  二年前、三上はバー縞馬で酒を飲むためにも、工面する必要のある経済状態だった。その金額は、彼にとっては覚悟しなくては出せぬ額だった。  そのときの金額が、三上にとってもふさ子にとっても大きなものであったために、そしてその金を貸したために、彼はふさ子と特別の関係を持とうとは言い出せぬ間柄になってしまったわけだ。  野村からふさ子の話を聞かされたとき、たしかに三上は酔っぱらっていた。ただ、その金を貸すに際して、彼は細かく気を配ったので、ふさ子との友情までは損わずに済んだ。 「なんだか、にわかにふさ子に会ってみたくなったよ」  三上が言い出すと、野村も、 「おれもそうだ。あの女には、どこか、こうケナゲなところがある。行先は、分らないのか」 「バー縞馬のマダムに聞けば、分る筈だ。ときどき顔を出すことがあるらしいから」 「それでは、電話をかけて、聞いてみようじゃないか」  三上は立上って、店の隅にある電話器に歩み寄った。バー縞馬のマダムの声が、やがて受話器の中で聞えた。 「ふさ子さん、たしかいまは……」  と、マダムが店の名を告げた。 「その店は、どういうところ」 「よく知らないけど、アルサロみたいなところじゃないかしら」 「その店でも、やはりふさ子という名前だろうか」 「たしか、そうだとおもったわ」  三上が席に戻ってくると、女給が言った。 「お分りになって」 「分った」 「ずいぶん熱心なのね、そのふさ子さんてかた、よっぽど素敵な人なのね」 「素敵じゃないが、良い人なんだ。酔っぱらうと、ときどき、ふっと会ってみたくなる程度の、良い人なんだよ。つまり、熱心なのは、ふさ子にたいしてではなくて、酔っぱらうことに熱心なんだ」 「留子は死んじまった。生きている方のふさ子に会いに行こう」  野村が立上って、促した。  教えられた店は、繁華街の裏手に新しく|拓《ひら》けた町に在った。  薄暗い、陰気な店である。小さな三階建の全部がその店で、二人の男はその三階に昇った。  部屋の中は、活気がなく、どんより澱んでいる感じだ。女給たちは背中の開いた衣装を着て、胸にセルロイド製のまるい番号札を付けている。であるから、アルバイト・サロンか、安直なキャバレーの一種にはちがいあるまい。  席にきたボーイに、三上が言った。 「ふさ子という女の子を探しているんだ……、この店にいる筈なんだ」 「店の名前が、ふさ子というのでしょうか」 「たぶん、そうだと思うんだが」 「番号は、分りませんか」 「それは君、分らないよ」 「この店には、ふさ子という子は、三人いるんですが」 「仕方がない、全部呼んでみてくれ、それから本名でふさ子という女の子も、みんな連れてきてくれ」  酔いが一層まわってくるのが、三上は自分で分った。いまはふさ子に会いたいというより、こういう形でふさ子を探している趣向を愉しむ気持の方が、はっきりと強かった。  やがて、女給たちが集ってきた。生気の無い足取りで、足の裏を床に引擦るようにして、つぎつぎと現れ、三上と野村の傍に坐った。  勘定すると、五人いた。  しかし、バー縞馬にいたふさ子の顔は見えない。 「きみたち、みんな、ふさ子さん……」  五人の女は、顔を見合せて、 「ええ」  と、あいまいに答えた。  考えてみれば、疑わしい点もある。ふさ子という店での名前の女給が、同じ店に三人もいるとは横着な話だ。酔っぱらって、ふさ子ふさ子ふさ子を探していると言っていたので、ボーイがふさ子を五人つくり上げたのかもしれない。二人の客に、五人の女給を侍らせれば、よい売上げになる。  しかし、それはそれでよい。三上たちの趣向に、ボーイのやり口は叶っているわけだ。だが、五人のふさ子たちが揃いも揃って無口なのに、二人の男は困った。みんなどんよりした眼つきで、背筋を伸ばして坐っており、冗談を投げかけても何の反応もない。  頭の働きの鈍さを示している眼で、娼婦にときおり見かける眼だ。丁度、赤線地帯が廃止されて一年目の時期だ。職を失った娼婦たちが、この店に集ってきている、と考えれば、この店の陰気な|饐《す》えたような雰囲気は納得できる。  三上は、ふさ子のあの荒廃の翳のある顔を思い浮べた。彼女の外貌がこの店に似合っているだけに、この店には勤めつづけられなかったのではあるまいか。もう、ふさ子はこの店にはいないな、と三上はおもった。  話題が無いので、三上は時間をもてあまし、ようやく会話の種を見付けた。 「きみは、ふさ子さんか」  と、右どなりに坐っている女に、問いかける。 「ええ」 「ふさ子とは、どういう字を書くの」 「ぼうしゅうのぼうです」 「ぼうしゅう。ああ、房州か。葡萄の房の房だな」  今度は、左どなりの女に、 「きみも、ふさ子さんだね」 「はい」 「どんな字を書くの」 「ええと、平がなで、ふさ子です」 「なるほど、それでは、そっちのふさ子さんは、どういう字かな」  野村の左側の女が答える。 「富士山の富に、佐藤の佐ですよ」 「富佐子か、これは少々変っているね」  バー縞馬のふさ子はどういう漢字を当てたのか、考えてみたが思い出せない。いくぶん苛立って思い出そうと試みているうち、彼女の名前は耳から聞いたものだけしか知らないことに気付いた。どういう漢字を当て嵌めるのか、訊ねたことがなかったのだ。  野村はこの店でも、右どなりの女の剥き出しの背中に掌を押当てて、ゆっくり撫でおろすことを繰りかえしている。彼の掌の当て方は巧妙で、強くも弱くもない力で背中の皮膚に押当てた掌の全面を、微妙に|蠕動《ぜんどう》させながら撫でおろしてゆく。  三上は、野村の右どなりの女に向き直り、 「きみもふさ子だな。返事したまえ、どんなふさ子なんだ」  と訊ねたが、しばらく答がない。ようやく、咽喉の塞がったような声音で、 「わたしのふさ子は、ふ、さ、子、です」  三上は、あらためてその女の顔を眺めた。おどろいたことに、彼女の額に、汗の粒がふつふつと一面に浮び上っているのだ。額のひろがりの上に、横一文字につながった水滴が、幾列もずらりと並んでいる。  いかつい躯つきの若い女である。 「どうしたんだ、その汗は」  咄嗟に口に出した三上は、言ってはいけない質問をした気分になった。なぜその質問をしてはいけないのか、はっきり理由は分らないのだが。  その女は、細長く折りたたんで洋服のベルトのところに挟んであるハンカチをいそいで掴み、額の汗を|拭《ぬぐ》った。 「どうしたんだい」  今度は、野村が訊ねた。彼女は黙ったまま、口のまわりだけで笑ってみせた。  野村の掌は、その女の背中から離れていた。野村の彼女の背中にたいする執拗な愛撫の様子を、三上は思い浮べた。しかし、その女がこういう場所に不馴れで、また男に不馴れで、彼の愛撫の気味わるさを我慢しているうちに額いちめん冷汗が滲み出た、という解釈をする気持にはなれない。  むしろ、その逆である。男の掌に誘い出された官能が、その女の皮膚の下にしだいに部厚く拡がり、層を成して蓄ってくる。男の掌に応え、その官能を発散させる|術《すべ》のないままに、彼女はじっと躯をこわばらせているうちに、出口のなくなった熱気がじわじわと彼女の額から滲み出てきた……、という考え方。  それは、ロマンチックな解釈に過ぎるかもしれない。  その女は、胃の具合がわるくて、吐気を我慢しているだけのことかもしれない。  あるいは、その女は覚醒剤の常用者で、くすりが切れかかっているのかもしれない。 「それで、もうこの店には、ほかにふさ子はいないのか」 「一人お休みしているふさ子さんがいます」  女の一人が言った。 「そろそろ、帰ろうじゃないか」  三上が誘うと、野村はすぐに立上った。  戸外へ出ると、二人の男は顔を見合せて、 「あの汗は、凄かったね」 「おどろいた」  と、野村は言い、けたたましく笑い出した。そして、二人の男は、それぞれの解釈を、活撥に取りかわしはじめた。  二人の男の酔いを飾るための趣向は、十分に満足させられて、それ以上、彼らはバー縞馬にいたふさ子を探そうとはしなかった。  数日後、三上はバー縞馬に行って、マダムの教えてくれた店には、もうふさ子は居なかった、と告げておいた。  そして、そのままふさ子のことは、三上の念頭から離れた。  ある夜、バー縞馬のマダムが、三上に言った。 「ふさ子さんの居場所が分ったわよ」  と、近くにあるバーの名を教えてくれた。しかし、そのときは、三上はすぐに立上ってその店へ行く気持が起らず、そのまま数ヵ月経った。  ある夜、三上はバー縞馬で、偶然野村に出会った。二人とも、かなり酔っていた。また、ふさ子の話が出て、 「そういえば、ふさ子のいる店が分ったよ」  と、三上が言い、野村が早速立上って、 「それじゃ、そこへ行こう」  ふさ子のいる店は、階上に在って、細長いスタンドバーである。カウンターの向う側に、見覚えのあるふさ子の顔があった。 「まあ、珍しい。ずいぶんお久しぶり」 「きみのことは、ずいぶん探して歩いたんだぞ。ふさ子ふさ子、と、まるで流行歌の文句のように、探して歩いた」  野村が、大袈裟に、陽気な調子で言った。三上は、陰気なアルバイト・サロンの名前を口に出して、 「──にも、行ってみたんだが」 「まあ、あそこにも、いらしたの。あの店には、あたし三日くらいしかいなかったのよ」 「あの店では、大変だった。ふさ子という女が五人出てきた。ふさ子の総揚げだ」 「それが、どれもこれも、ひどいふさ子でねえ」  そういう会話を、彼女の近くの白服のバーテンが、笑顔をつくって聞いている。  しばらく会話が弾んだが、やがて話題が無くなった。不意に、彼女が口を開いて、 「三上さんには、お世話になっているわ。いつかご恩返しをしなくちゃいけないとおもっています」  その言葉は、取って付けたように、しらじらしく三上の耳に届いた。 「冗談じゃないよ。あの件は、あれで片が付いていることなんだ」 「でも……」  三上の躯の中で拡がりかかっていた酔いが、こわばりはじめた。その酔いを一層、心地よく拡がらせるために、ふさ子に会いにきた筈なのだ。いや、ふさ子に会うのは、五人のふさ子の話をして聞かせるためだったのかもしれない。その話の聞き役として、彼はふさ子を必要としていたので、それ以上のことは煩わしい。  ふさ子に役立てた金自体、彼の酔いを一層飾り立てるためのもので、その金によってふさ子との間に何らかの人間関係が発生したと考えられては迷惑だ。  しかし、そう考えるものの、やはり中途半端な気持が、三上の中に滓のように残った。  その気持が彼を動かした。その店を出るとき、ふさ子は二人の男を送りに出てきた。入口に通じる階段の途中で、三上は彼女を壁に押付け、 「それじゃ、恩返しさしてくれ」  と、その胸に掌を押当てた。 「いやあ」  大袈裟な嬌声を立てて、彼女は身もだえし、三上の躯を押除けようとする。 「きみが馬鹿なことを言うから、おかしな気持になってしまったじゃないか」  そう言いながら、彼は強い力でふさ子の躯を揉みくちゃにしようとしたが、彼女の抗う手には真剣な力がこもっているのに気付いた。  三上は躯を離し、ふさ子を眺めた。彼女は壁に背を付けたまま、困惑した笑顔を示している。  階段の上に、白い影が動いたのが、三上の視界の端に映った。彼が首を仰向けてみると、先刻ふさ子の傍にいたバーテンが、首を覗かせていた。  三上と視線が合うと、バーテンは笑顔をつくり、軽く一礼して首を引込めた。 「なるほど」  と、三上はおもい、ふさ子を壁に残して、階段を降りはじめた。戸外に出てしばらく歩き、振向くと、ふさ子の姿は見えなかった。その店の入口だけが、細長い黒い紙を貼り付けたように見えていた。 「なるほど」  と、もう一度、三上は呟いた。そして、当分この店に自分は来ないだろう。しかし、またいつかは、ふと、ふさ子のことを思い出し、自分の酔いを飾るために、彼女の行方を探すこともあるだろう、とおもった。 (一九六一年)  電話と短刀  去年、じつは死ぬかとおもっていた。深刻な心持ではなくて、ふとそんな風に感じることがあった。  父親が死んだと同じ年齢というのは、厭なものである。父親が死んだ年齢は、三十代の半ばであって、まだ青年の風貌であった。それなのに、歯は異常にわるく、総入歯にちかかった。  その遺伝を受けたのか、私も去年、下顎全体に義歯を嵌め込まれた。血がだんだん古くなってくる。少年の頃から、歯が異常に悪く、つぎつぎと欠け落ちていった。 「ぼくは、総入歯です」  と、去年、五十年配の人に言ってみた。その人が、肉体の衰退を、冗談まじりに嘆いていたときにである。 「なにを言ってるんだ」  その人は笑って、そして厭な顔をした。私が、悪い冗談を言ったとおもったようだ。  もっとも、同年配の友人たちは、露骨に嬉しがった。酒席で、女の前でそのことを話題にしたりした。  父親は、狭心症の発作で、急死した。私も心臓はときどき変になることがある。そういうときには、拳で胸の上を叩く。停った古時計を動かすときのように、叩く。十年も前に、娼家の朝、心臓が変になったことがある。顔の上に、朝日が照りつけているのがわかる。額に脂汗がにじみ出てきたのが、わかった。口を開けて叫ぼうとするが、声が出ない。躯がしびれて、手も足も動かない。息が詰ってきた。  長い時間が経ったようにおもえた。ようやく心臓の鼓動が正しくなってきた。躯が動くようになって、眼を開いた。  おしろいと女のにおいが、鼻腔に流れ込んできた。枕もとに、朝の化粧を済せた娼婦が正坐して、じっと顔をのぞきこんでいた。熱っぽい眼をしていた。 「いま、苦しんでいたんだ。分らなかったのか」  女は、同じ表情のまま、 「分らなかった」  と、答えた。  ともかく、去年、死ぬのかとおもっていた。死のう、とおもったことはない。しかし、車を運転していて、いまハンドルを右に切ればあのコンクリートの塀にぶつかるのだな、と、ふと思ったりした。  そのあとにくる状態を安息と感じ、その安息に思いを致すと、一瞬うっとりした。  しかし、決してハンドルを右に切ったりはしなかった。心臓も停らなかった。そして、今年になった。 「長生きをしなくちゃいかん。できるだけ長生きをしたいとおもう」  そんな言葉は、以前から時折、口に出して言った。  その言葉を口にすると、 「本当に、長生きしなくてはいけない。まだ、やることは沢山ある。まだ、なにもやってはいないんだから」  と、真剣におもう気持が起ってくるが、きわめてシニックな感情も浮び上ってくる。長生きなどはしたくないし、また、もうやることはなにも無い。そのように、平素自分が考えていたような気持も起ってくる。  こういう反対の二つの感情が起ってくるその強さが、父親の死んだ年齢よりも上になってからは増してくるようになった。  それともう一つ、父親を、自分と同年配の男として考えてみることが、しばしば起るようになった。いままでは、父親の記憶には、父としてのイメージが必ず絡まりついていたのであるが。  父親のことを知りたい、とおもうようになった。彼が、私くらいの年頃のとき、つまり死ぬまでの数年間、いったい何をしていたのだろうか。噂は、いくつか耳に入っている。しかし、正確なことは、あるいは細かいことは、何ひとつ分らない。  たとえば、彼の急死は、腹上死だという噂がある。そういう結末を、彼の短かい人生につけることが最も似合しい、とおもわせるものが彼にあったらしい。  彼の旧友のT氏は、酔うとそのことを私に質問した。醒めると質問したことを忘れるのか、あるいは質問することで懐旧の心持に溺れようとするのか、もう三、四回も、その質問をうけた。 「お父さんは、|ねこ《ヽヽ》のお腹の上で死んだというが、本当かね」  ねことは、小ねこという名の芸者で、父親がその晩年に愛した女だそうだ。  しかし、私は父親の死に立会っていない。丁度その頃、私は腸チフスになって、隔離病室に収容されていた。重態だったので、その死はかなり後まで知らなかった。  腹上死なら腹上死でよい。人生の結末の形として、醜いものではない。ただ、正確なところが知りたかった。  母親に、訊ねてみた。 「おやじは、どこで死んだのですか」 「それがね、めずらしく家へ戻ってきてね。離れの部屋で、急にくるしみ出して……、F先生(近所の女医)がみえたときには手おくれでね」  さらに、隣家の義姉が廊下で地団太踏んで泣きわめいた模様を、くわしく話してくれた。それは、本当かもしれない。あるいは嘘かもしれない。しかし、たとえば、彼の死に立会ったというF先生を訪問して、たしかめてみようという気持にはならなかった。それほどまでにすることはない。父親の晩年のことを知りたいとおもうのは、要するに、彼を同年配の男として、肉感をもって感じ取ろうという気持のあらわれらしい。そのとき、私はそのように思った。  詮索しすぎることは、無用のことだ。  であるから、父親が愛した小ねこという女の顔かたちも空白のままであったし、産んだという子供と一しょに彼女が戦災死したという噂の真偽も、確かめられないままになっていた。  ある日、地方都市に住んでいる叔父に、四年ぶりで会った。この叔父は、亡父の実弟である。  四年前、会ったとき、だいぶ髪の毛が薄くなっていた。あるいは、もう禿げてしまったか、とおもっていたが、髪の毛の状態はほとんど以前と変っていない。 「もちこたえていますね」 「そのかわり、総入歯になった。かえって調子がいいぞ。なんでも喰える」  と、叔父は義歯をはずして、みせてくれた。  気むつかしいところのある叔父なのだが、一緒に酒を飲んでいるうちに、上機嫌になってきたものとみえる。叔父が上機嫌なのをみて、私は訊ねてみた。 「叔父さんは、立教大学をどうして退学になったのですか」  当時、立教大学という学校は、入学するのは容易だが、退学処分はよほどのことがないと行われない筈のものだった。叔父が立教大学を退校させられたというのは、亡父にまつわる噂にまじって、私の耳に這入っていた。  亡父は思想問題で、中学を退校になったという噂がある。もっとも、一説によれば、女学生とカケオチして退校になったともいう。その女学生が、すなわち私の母親だと、その説はいう。また、母方の二人の叔父は、やはり思想問題で高校を退校になった。これは噂ではなく、事実である。しかし、この叔父は思想問題には関係ない筈である。 「立教大学で、空前絶後の不良学生である」と、教授をして嘆かしめた、という噂があった。いかなる不良行為で退学になったか、興味があった。それに、亡父のことを訊ねてみる伏線のつもりでもあった。 「わしは、退学などになりはせんよ。勝手にやめたんだ。落第もしなかったぞ。一度、落第をしかかったが、点数の足りない課目の教授の息子がたまたま同じ級にいてな。これは、まじめ一方の生徒だった。そこである日、その教授を学校の庭で呼び止めた。点数をくれなければ、先生の息子を不良の仲間に引きずりこむぞ、と言ってやった。すぐに、点数をくれたよ」 「立教大学では、最初で最後という抜群の不良学生という話ですが、本当ですか」 「そんなことも言われたが、なに、昔の学生はのんびりしたもんだったよ。いまの不良とちがって、愛嬌があったな」  と、叔父は、当時の話をしてくれた。その話が、予想以上に面白かったので、覚えがき風に、書いてみる。  ある夏、海水浴場のある避暑地にいた。  退屈なので、知り合いの食堂で、皿を洗ったり、板前の真似をしたりしていた。アルバイトではない。本気でアルバイトを探したのは、もっと後のことだ。  当時、女ばかり五、六人、組になって、都会から出張してくる商売があった。避暑地の食堂や料理店に住み込んで、その手つだいをするのである。  その|姐《ねえ》さん株の女に、惚れられた。わしは、夏の着物の上等を着て、桐の|柾目《まさめ》の下駄を履いていたもので、金持のぼんぼんと思われたらしい。金持のぼんぼんには違いなかったが、金は無い。おやじ(つまり私の祖父)が、くれないんだ。  銀杏がえし、とかいう髪を結っていてな、素足のきれいな女だった。  東京へ帰って、所帯を持とう、ということになった。  桐のタンスを買って頂戴ね、うんよしよし。鏡台も買って頂戴、よし引受けた。といろいろ約束したもんだ。  東京へ帰って、新しく部屋を借りた。いままでの学生下宿では、具合がわるいからな。ところで、部屋はできたが、中身がさっぱり揃わない。  箪笥も鏡台も、買える筈がない。兄貴(つまり私の父親)のところから、布団を一組貰ってきた。結局、わしが女に買ってやったのは、金だらいと枕だけだったな。  それどころか、すぐに食うものが無くなった。そこで、一策を案じた。学校の食堂は、ツケで食わしてくれる。女と一緒に、学校へ出かけてゆく。銀杏がえしの女と一緒にな。くどいようだが、素足がきれいだったよ。  わしは、いつも和服でな、|雪駄《せつた》をチャラチャラ鳴らしながら、女を連れて学校の食堂へ出かけて行く。  退学にはならないが、苦情が出たな。  また、女が夜の勤めに出るようになった。終電車の着く時間になると、駅まで迎えに行く。 「おまえ、疲れたろ」  とか言って、一緒におでんの屋台などで一ぱいやる。もちろん、金は女が払う。  こういう生活は、長つづきはしないな。 「もう別れようや」 「別れましょうか」  ということになった。  東京も食い詰めてきたので、何とかしなくちゃならんとおもっているとき、耳よりの話があった。  山村という友人がいて、これは美男子だった。羽左衛門ばりのいい男なんだ。やたらに女に惚れられた。この男が、パーティで伏見信子に会った。伏見直江、信子姉妹といえば、なかなか有名な女優だった。  それで、そのとき信子がなにやら思わせぶりの風情だったというので、さっそく手紙を出した。  返事がきたな。遊びにきてくれ、というのだが、家が京都なんだ。たまたま東京にきているときに、パーティで山村に会ったわけだ。 「おい、一緒に行くか」  と山村が言うもんで、わしも行くことにした。  京都駅からタクシーに乗った。このタクシーが頓馬なやつで、さんざん道に迷ったあげく、高い料金を請求する。 「道に迷ったのは、そっちの勝手じゃないか。もっと安くしろ」 「負かりません」  とうとう喧嘩になった。喧嘩わかれになって、金は払わなかった。  信子の家に入ると、丁度、彼女が学生を三、四人連れて、母親も一緒に、出かけるところなんだ。  野球見物に行くところだという。一緒に行きましょう、という。 「あ、丁度いいわ。あそこにタクシーがいる。あれに乗って行きましょう」  見ると、それは喧嘩したタクシーではないか。 「あれはいけません。あんなものに乗ってはいけません」  というわけで、他のタクシーに押込んだまではよかったが……。  この伏見信子というのが、セーラー服を着ているんだな。いや、若づくりではなくて、もともと女学生なんだ。山村が会ったときは、パーティだったもので、大人の服装をしていたわけだ。  いま見る伏見信子というのは、色はまっ黒だし、ニキビがいっぱいできている。野球場で、すぐ前に坐っている彼女の襟あしのところにも、二つ三つニキビが吹き出している。 「おい山村。こりゃあ、いかんよ、小娘じゃないか」 「そうだなあ。おれも、いま吃驚しているところなんだ。どうしよう」 「どうしようって、逃げちまおう」  そういうわけで、野球場から出てきてしまった。  京都でぶらぶらしていたが、すぐに持金は使いはたしてしまった。大阪に山村の親戚がいるので、山村はそこに厄介になることにした。おやじの金を持ってきて、使ってしまったもので、すぐには東京へ帰れない。  わしも山村にくっついて、その家に行った。つまり、|居候《いそうろう》の居候ということになるな。  居候だから、小づかいまでは貰えない。わしが贋の病気になって、親父に手紙を出した。痔がわるいから治療代送れ。すぐに親父から封書がきた。ところが、親父もさるものだ。封筒の中には、カワセのかわりに、紹介状が入っていた。大阪で開業している医者宛の紹介状で、治療の請求書は直接おやじの方に届く仕組になっている。  これでは、何の役にも立たない。  間もなく、用事でおやじが大阪にきた。会いに行ってみると、 「やあ、元気でやっているかね」  と、機嫌がよい。 「どうだ、家に帰ってこないか」  その言葉に釣られて、大阪から西へ三時間の土地へ帰った。山村がくっついてきた。今度は、山村が居候だ。ところが、これがいけない。飯は食わしてくれるが、小づかいを一銭も渡してくれない。軟禁状態だな。  山村と二人で、逃げ出して、東京へ舞い戻った。  これからが、ますます金のない時期になる。学資は送ってくれるが、遊ぶ金がない。室内電話器というのを売ったこともあったな。一台売ると、口銭が二円になる。 「そういえば、姉さんにも売りつけましたな」  と、叔父が傍にいた私の母親に向っていった。 「や、あれは、叔父さんの口銭かせぎの電話器でしたか」  母親が返事する前に、私が言った。エボナイト製の小さな箱型の電話器で、ベルのかわりにブザーが鳴った。小学生だった私は、それが珍しくて、新鮮で、印象に残っていた。 「あの頃は、みんな金が無くてね。兄貴のところへ、いろいろ持ち込んできたもんだよ。兄貴の友だちで近藤一郎という男がいたろう、あの人はどうしているかな」 「あの人は、郷里に引込んで、女学校の先生をしていますよ。この前、ぼく宛に年賀状がきました」  近藤一郎という人物は、印象に残っている。痩せた眼のするどい男で、小学生の私が門口で遊んでいると、 「お父さんはいるかね」  と、やってくる。  そして、玄関に入ってゆくのだが、そのとき私の顔をみて、にやりと笑うこともあり、兇悪な顔で睨むこともある。その日その日の気まぐれらしい。 「ほう、あの人が女学校の先生かねえ。あの人が、待合の払いに困って、兄貴のところへ短刀を持ちこんできたことがあったな。先祖伝来の短刀で、いい品だった。たしか、水心子正秀……」 「水心子正秀ですって」  私は、びっくりした。 「そうだ。たしか、おまえの手もとにある筈だぞ。兄貴がおやじにやって、おやじからおまえに行っただろう」 「たしかに、ありますがね。あれはニセモノでしょう」 「いや、鑑定に出した筈だぞ。いい品だった筈だ」  あの水心子正秀が、近藤氏のものとは知らなかった。じつは、数年前、私はある娼家に借金ができた。そこで、その短刀を娼家の主人に渡し、 「これは、父祖伝来の銘刀である。しかし、こうなってはやむをえない。なるべく高く売って支払いに当ててください」  と、依頼した。  しばらく経って、その家に行き、 「どうです。お釣りがきたでしょうが」  と言うと、主人はあいまいな顔をして、 「あれは、いけません」 「いけないって。どのくらい、値がつきましたか」 「いや、これは大切にしまっておきなさいな」  と、主人は錦の袋に入った短刀を戻してよこした。  ところで、電話器を売込む先も無くなってしまった。  山村の父親が、新橋演舞場の重役をしていて、下足番ならクチがある、という。ハッピを着て、威勢よくやっていれば、いい稼ぎになるという。それをやることにした。ところが、どこからかその話が洩れて、おふくろ(つまり私の祖母)の耳に入った。 「下足番だけは、やめてくれないかね」  と言われて、親孝行のために、やめることにしたよ。  話し終ると、叔父はこう言った。 「しかし、兄貴はわしに輪をかけたようなやつでな。あいつには、かなわない」  すかさず、私が訊ねてみた。 「小ねこ、という女、会ったことがありますか」 「うん」 「どんな女でした、|人三化七《にんさんばけしち》ですか」 「いや、小柄の可愛らしい顔をした女だったな。姉さんも、会ったことあるでしょう」 「わたしは、ないわ」 「そうかな。兄貴の葬式のとき、きましたよ」 「あら、そうなの。気がつかなかった」  人三化七か、と訊ねたのは、亡父は晩年になるほどゲテモノ趣味が強くなった、と聞いていたからである。  たとえば、こういう話がある。ある日、母親が銀座を歩いていた。向うから、異様な風体の女がやってくる。豚のように肥った顔を極彩色に化粧して、おでんやのノレンのような衣裳を身にまとっている。 「あんな女を連れて歩く男は、いったいどんな人物なのだろう」  と、ひょいと横をみると、そこに私の父親がいた、という。 「それで、子供がいたとかいいますが」 「女の児ができたんだが、空襲で母娘とも死んだというな」 「それでは、ぼくには、知らない弟か妹はいないと思っていいですね」 「そうだなあ。あれはどうだったかな」  と、叔父が首をひねった。 「小ねこの前の女の子どもは、どうなったかな」 「子どもができたんですか」  それがはっきりしない。その女は、浅草の|名妓《めいぎ》で、三代つづいた芸者だという。だから、女の児ができれば、四代つづくことになる。血は争えない。きっと、名妓になる素質の持主だろう。 「女の児だったら、おれが引取る。男の児だったら、おれは知らん」  と、亡父は言っていたという。その女が、実際に妊娠していて、彼がそう言っていたのかどうか、はっきりしない。あるいは、引取らなかった男の児が、いたのかもしれない。  いずれにせよ、父親に関しての噂は、相変らず曖昧な形のままで残った。  しかし、それはそれでよい。私がもっと年を取れば、曖昧な形のままでいろいろの噂を思い浮べ、 「若いもんが、いろいろ威勢よくやっていた、というわけだな」  と、もうはるか年下になってしまった父親のことを、思い浮べるようになるだろう。 「それにつけても、やはり長生きしなくてはいけない」 「本当に、そう思っているか」  私は、心の中で自問自答した。  父親に関しての噂は曖昧なままで残ったが、叔父の話で思いがけなく瞭かになったものがある。電話と短刀である。いずれも、私の記憶の中に、はっきりした位置を占めているものだ。それにまつわる因縁が分ったことは収穫といってよい。  私は、記憶の中のその二つの物体を、撫でてみた。それは、物自体の持っているしっかりした手触りで、心に触れてきた。 (一九六〇年)  風景と女と  雨に濡れているアスファルト道でタイヤが少しスリップしながら車が大きく右折すると、傍の女の躯が私の方に倒れかかってきた。その躯は私の片側の肩と上膊のあたりに柔らかくそして重たい感触を残して、直ぐに元の位置に戻った。  私は心の中で呟いた。「この女の躯にはけっして触れまい」と。すると、その言葉は私の記憶のどこかをくすぐるとみえて、幾分新鮮な気分が甦ってくる。私はその気分を呼び出すための呪文のように、時折その言葉を繰返して呟くのだ。 「川のところに来ましたよ。これから、どっちへやります」  運転手の声がした。女と一緒にタクシーに乗ったとき、「隅田川に突当るまで走らせてくれ」と、私が言ったのだ。 「これは、何橋だったかな」 「駒形橋ですよ」 「それじゃ。|勝鬨橋《かちどきばし》の方へなるべく川に沿って走ってみてくれないか」  車は直角にカーヴして、ふたたび走り出した。雨の日なので、昼間の街は薄暗かった。  私の傍の女は、娼婦である。  タクシーを走らせていると、この女と最初に会ったときのことが思い出されてくる。その時といっても昨夜のことだが、私は中年の男と並んで車に乗っていた。男は|散娼《さんしよう》の客引きである。私が男の誘いに応じたとき、男は「ダンナ、恐れ入りますが六十エン奮発してやってください」と言い、私を小型タクシーの中に押込んだのだ。  私はその夜、幾分まとまった金が入っていた。酔っていたし放埒な気分にもなっていたし、また(これは辻褄の合わぬ言い方に聞えるかもしれぬが)心が衰えてもいたので、客引きの男の誘いの言葉を半分も聞かないで承諾した。もともと、その種の言葉の内容をそのまま受取るほど愚かなことはないのだから。ところが、私があまりに簡単に承諾したことが客引きの男に物足らぬ気分を起させているらしかった。男は念を押すように、 「ダンナ、本当に美人なんだぜ。素人のアルバイトなんです。昼間は喫茶店に勤めているんでさ。ファッション・モデルにしたって十分つとまるような好い女ですよ」 「そうか、まあ行ってみようよ」 「失礼ですが、ダンナは絵を描かれる方ですか」 「う、うん」 「やっぱりそうでしょう。いや、あっしはあの、ゲイジュツのほうには、たいそう……」  と、ここで男は不意に声を荒げて、運転手を怒鳴りつけた。 「おい、そこを左へ曲れと言っておいたじゃないか。右といえば右、左といえば左へちゃんと曲るんだっ」  男はたちまち声を柔らげ、慇懃丁重に私と話をつづける。 「ダンナ、いやセンセイ。画家の方にいい加減の女をご紹介することなど、とても出来やしませんよ。なにしろお眼が高いですからな、まったくゲイジュツ家の方は……」  ここでまた、男は声の調子をがらりと変えて運転手に向って怒鳴った。 「バカ、また間違えた、駄目じゃないかっ」    このようにして、私は裏通りのアパートの一室に連れ込まれて、女に会った。  一見して私より年上と分る客引きの男は、部屋に入るとよれよれのレインコートを脱ぎ、正坐して畳に額をこすりつけるようなお辞儀をすると、 「これは、はじめてお目にかかります」  男の|窶《やつ》れてはいるが大きく立派な目鼻を眺めて、うっとうしい気持になった。この男はこういう態度を取ることによって自虐的な気分の昂揚を味わい、同時に相手を小馬鹿にしている姿勢を取っている気持でいるのに違いない、とおもったからだ。 「冗談じゃない、そんな丁寧な挨拶はやめてください」 「いえいえ、いかに社会の屑のようなことをやっております身でも、礼儀だけは忘れてはおりません」  男はそういうと、ますます額を畳にこすりつけるのだった。  男が去って、女と二人だけになった部屋の中を、私は見廻した。狭い室内の隅の小机の上に、花を挿した一輪差しの花瓶と、モジリアーニの画集が置かれてあった。  花も画集も、この部屋のアクセサリーのように、私の疑い深い眼に映った。  しかし、男が強調したように、女は美しかった。ウエストが細くくびれた綺麗な躯をしていた。ただ、眼が薄い膜に覆われたように光を失っていた。  その眼のその薄い膜のうしろ側から、女が躯を横たえたとき、涙が流れはじめた。  その涙を見て、私は心の奥の方に埋まっている古い記憶を呼び醒まされる気分になった。記憶といっても具体的な事柄ではなく、|靄《もや》のようにとりとめのない感情、昔どこかで私の中に潜り込んできた感情がまず呼び醒まされた。  つまり、私は、甘い抒情的な気分になったのだ。  私はその気分に、わざと押流されてみようとおもった。女の涙を見て起ったいろいろの皮肉な考えは、傍に押除けて置こうとおもった。 「厭なのか」  私は、そう訊ねてみた。女は眼を|瞑《つむ》ったまま大きくかぶりを振った。 「しかし、そんなに泣くのなら、やめた方がいい」  もう一度、かぶりを振る女の躯を、私は検べてみた。女の躯の、涙を流しつづけている眼以外の部分は、すべて男の躯を迎える形になっていた。そのことを確かめた私は、起き上って服を着た。  女は|俯《うつぶ》せの姿勢に変り、枕を胸の下にかかえ込むようにして、今度は声をたてて|嗚咽《おえつ》をはじめた。白い肩と背が、大きく上下に波打った。  私は机の上のマッチを取上げて、煙草に火を付け、黙って煙を吐きつづけた。そのマッチは私が時折行くコーヒー店のものであった。 「ごめんなさい、泣いたりして」  やがて女が言った。 「今度、いらっしゃった時、泣いたわけをお話しするわ」  その言葉は、私の耳に職業的な響を伴って這入ってきた。しかし、甘い抒情的な気分は、相変らず維持できていた。 「今度きたら、か。それより、君、コーヒー屋へ行くことがあるのか」  私は女にマッチを示して、訊ねた。 「それとも、客が忘れて行ったマッチかな」 「いえ、あたしのマッチなの。昼間、ひとりでコーヒーを飲むのが好きなの」 「それなら、明日、この喫茶店で昼間に会ってみようじゃないか。昼間、どこかに勤めているわけじゃないんだろう」 「え、ええ」  と、女はちょっと言い淀んで、やがて承諾した。  私は女がその約束を守ることを、期待してはいなかった。しかし、その翌日コーヒー店で女の姿を見かけたとき、心に甘い抒情的な気分が拡がってゆくのを、私ははっきりと感じた。  店を出ると、私はタクシーを停めて女に言った。 「川を見に行こう」    勝鬨橋の|袂《たもと》で車を降りた私と女は、雨傘をさしてゆっくり橋を渡っていった。  河口の向うに、東京港のクレーンやさまざまな船の形が、灰色に霞んで見えていた。上流寄りの右岸では、雨の中で新造船のレセプションが行われている。東京港めぐりの小さな遊覧船が沢山の旗で飾り立てられていた。  私は、思い出していた。  以前、この川の上流の左岸の町に住んでいる娼婦を愛したことがあった。「愛した」ということはどういうことか私にははっきり答えられないが、ともかくその町に在る女の家に近づくと、心臓がきゅっと縮む気分になったものだった。  私は黒い蝙蝠傘をさしたまま橋の上に立止って、川を眺めていた。傍の女をみて私の心臓がきゅっとすることはないが、傍の女と川とによって昔の女を思い出している。  女の名前を、私はわざと聞いていない。傍の女と風景を媒体にして思い出を手繰り寄せるには、女は無名のままの方が都合がいい。  私はふたたび歩きはじめた。橋の両側の鉄骨によって|劃《くぎ》られた視野の果てに、銀色の珠が二つ並んで見えていた。それが何か分らない。地面に|繋《つな》がれた自衛隊の気球かもしれない。地面から盛り上った二つの巨大な乳房のように、その異様なものは、雨の膜のむこうに鈍く銀色に光っていた。  橋を渡り切ると、女が言った。 「歩くのはもう厭、あたし疲れているの」 「それでは、酒でも飲みに行こう」  私は、もう一度車に女を乗せて走らせはじめた。  不忍池の傍の縄のれんの店へ行こうとおもっている、その私の車の前に、異様な自動車が走っていた。  新型のルノーである。車台には傷が付いていないのだが、車体の方はといえば衝突した痕が明らかで、亀甲型のボディが波打つようにデコボコになっていた。 「ひどい車が走っているな」 「あれで、よく走れるわね」 「衝突して、これから修繕に行くところなのかな」  運転手が、職業的な観察をして判断を下した。 「いや、あれは、昨日今日にぶつかった車じゃないですよ。ボディが折れ曲った痕が、|赤錆《あかさび》になっていますからね」 「なるほど、そうすると、わざとああいう車に乗って走り廻っていやがるんだな」  私がそう言った時、前に走っているそのルノーの窓からロイド眼鏡をかけた青年の首がにゅっと突出て、私の方を振返りニヤリと笑った。 「おや、まるで今話していた言葉が聞えたみたいじゃないか」  傍の女が、はじめて湿り気のない声を出して笑った。  私は、ある友人のことを思い出していた。その友人は一万円出して中古の天蓋のないボロ自動車を買い、カンカン帽を|冠《かぶ》って下駄ばきで運転して、それで散歩の代用にするつもりだ、と言っていた。その後、その計画は実現したかどうか知らないが、おそらくそれと似た気持で、前に走っているルノーの男は車を走らせているのだろう。  そして、私自身、傍の娼婦と一緒に車を走らせて、「決して、この女の躯に触れまい」と考え、幾分新鮮な気分を甦らせているそのことは、その友人の都会風の気取りに大そう似かよっているのではあるまいか。  しかし、現在の私は、恋愛というものを思い出の中にしか見出し得ない気持になっている。  車はやがて、不忍池の傍の飲屋に着いた。生粋の江戸っ子の主人の作る鳥料理が自慢の店である。しかし、その店は入口の提灯の灯が消えて、赤く塗った提灯はすすけた黒ずんだ感じでぶら下っていた。  戸を開けると、店の中はガランとした薄暗さで、ビールの空箱が土間に積み上げてありテーブルにはうすく埃が溜っていた。 「なんだ、休みかな」  女将が、曖昧な顔つきで、奥から首をのぞけた。 「このところしばらく休んでいるんです。おとうさんの具合が悪いもんで」 「そんなに悪いのですか」 「ええ、ちょっと」  私は、暗い気持になった。主人の人柄と腕前とで営業している店には、必ずこういう日がやってくる。  女将は茶を|淹《い》れて、だるそうな手つきで女と私の前に置いてくれた。  この主人も少し前までは元気で威勢がよかった。嫁に行って今はいない英子という娘は、繊細な工芸品のような美人だった。瞳が緑色をしていた。すでに妻のある私が、酔ったあげくに、 「英ちゃん、結婚したいなあ」  と言うと、|俎《まないた》の上で庖丁を使っていた主人はちょっと横目で私を眺め、温和な笑顔のまま、 「おや、そうですか」  と言うと同時に、俎の上に、横たわっている鶏の首をカタンと庖丁で切り離した。  私は茶を半分ほど飲むと、女を促して外へ出た。時刻は夕刻になっており、雨の日の夕暮の光の中で、女はゆっくり赤い雨傘を開いた。  さらにもう一度、私は車を呼び止めて銀座へ引返した。  しかし、私の行く店は、みな扉を閉じている。私にとって、日曜日というものは特別の日ではなかったのでうっかりしていたが、その日は日曜日だった。  日曜日の銀座では、酒を売る店は休んでいるものが多い。 「バカねえ、今日は日曜日じゃないの」 「日曜日と君と関係があるのか」 「あるわよ。お客は日曜日は奥さんの相手で忙しいから、あたしたちは暇なのよ。だからこうして、あなたと一緒にあちこち走りまわっているのじゃないの」  女の顔を覗くと、女の眼に薄い膜が下ろされていた。  私は、日曜日であることに気付く先に、もう一つのことに気付いていた。それは、隅田川や不忍池の鳥料理屋をはじめ私の訪れてゆく場所は、すべて、私の過去の色彩のある記憶につながっていることだ。意識して訪ねて行っていたわけではないのに、気が付いてみると、そうなのだ。  それはなぜだろうか。傍の女が、そういう風景や場所を私のところに引寄せる働きをしているからに違いない。そうとすれば、私は傍の女に、愛着しはじめているということになるだろうか。いや、そうではなさそうだ。  そういう考えを振捨てるかのように、私は通りがかりのスタンド・バーの扉を押した。  店の中には、一人も客の姿は見えなかった。女が二人、煉炭火鉢の前に木の椅子を引寄せて向い合っていた。  サンダルを履いて、|無骨《ぶこつ》な素足の指が見えた。 「今ごろの時候に、まだ火鉢か」 「今日は、寒いもの。あたためてくれる客もいないし」 「あたためてくれる……」  私は店の中を見廻した。そして、視線の隅で連れの女の顔をうかがった。店の天井は造花の桜の花で飾ってあった。梅雨の季節の桜は時節外れで、白茶けて色褪せていた。  その上、桜の花弁のあいだに、ところどころクリスマスの飾り付けが残って吊下っていた。サンタクロースの人形や、靴下の形をした銀紙細工など。 「この店、酒も飲ますんだろう」 「ええ、どうかしたの」 「だって、あたためてくれる客なんて言うからさ」 「バカねえ、お酒のお|燗《かん》をするために、わざわざ煉炭火鉢を置いてあるのじゃないの」 「銀座のはずれなのに、ガスはないのか」 「ガス。そんなこと、どうでもいいじゃないの」 「まるで、どこか田舎の海岸にあるカフェーに行ったみたいな気分になってきた」  私はもう一度、店の中を見廻した。壁に大きなポスターが貼ってあって、女優が|嫣然《えんぜん》と笑いながら、ストローでリボン・シトロンを吸い上げていた。  店の女の一人が、コンパクトの鏡に顔を映して化粧を直しはじめた。 「静かすぎるな」  私は呟いた。そして、女に向って提案した。 「人がいっぱいいるところ、音がガチャガチャしているところへ行ってみないか」  女は黙って、うなずく。それがどことも訊ねようとしない。  私自身、その言葉を口にしたときには、それがどことも分っていない。しかし、椅子から立上ったときには、分った。  傍の女によって抽き出された記憶が、私を次の場所に連れて行く。  けっして躯に触れようとはしない傍の女の中から、昔のいろいろの女の影像が浮び上ってくる。その女たちのうちの一人が、私を記憶の中の風景や場所へ導いて行く。なんとなく触れないで過ぎてしまった女、あるいは触れないことによって新鮮な気分を味わっているうちに別れ別れになってしまった女たちの影像が、私を導いてゆく。  触れようとして触れることの出来なかった女たちに絡まる苦い記憶からは、今日の私は|免《まぬが》れていた。  それは、媒体になっている傍の女が、いつでも躯を許す筈の娼婦であるためだろうか。私は傍の女を丁重に取扱っているのだが、じつは女が娼婦であることを十分に利用し、昔の記憶の甘い抒情的な部分だけを呼び出す便利な道具として取扱っている。しかし、苦さの混らぬふわふわと明るい日曜日もたまにはあってもよいではないか。  私は女を誘って、新宿へ出た。私は、自分の行くところが分っていた。  武蔵野館の前に、ビンゴ・ホールがある。N列の10番、G列の13番……。マイクの声が、単調な言葉を絶え間なく繰返している。  ビンゴ・ホールの奥には、パチンコの機械が幾列も並んでいて、凄まじい機械音をひびかせている。  女と私は、その建物の二階に通じている木の階段を登って行った。  その二階の広間には、いろいろの遊戯の道具が並べてある。  コルク鉄砲による射的。  金魚すくい。  電気仕掛けのピストル、野球器具etc。  女の眼から、薄い膜がずり落ちた。女は低い、しかし|燥《はしや》いだ笑い声を短く立てながらあちこちの機械を覗いて廻った。  その女の姿に、私の記憶の中の女が二重写しになってゆく。  私は、記憶の中の風景の中にいた。  その時、私はその女と、射的場(というかスポーツ・ランドというか)の中央に置いてある卓上ホッケーの道具を挟んで向い合っていた。  この遊び道具はガラス張りの長方形の箱の両端に一つずつホッケーのスティックを構えた形の小さな鋳物人形が立っている。ハンドルを繰作すると、その人形は右あるいは左に回転してスティックを振りまわす。そのスティックで銀色の金属球を打合って、相手のゴールへ打込む遊戯である。  私はこの遊戯に熟達していた。この係に可愛らしい無口な少女がいて、私はその少女を相手に時折練習していたからだ。少女がハンドルを動かすと、銀色の玉は宙を走って私のゴールの中へ飛び込んできて、私はいつもたじたじとなっていた。  しかしその日は、私が女を翻弄する番だった。彼女はくすくす笑って無器用に球を打返しながらも、時折口惜しそうに肩をゆすり上げたり|聳《そびや》かしたりした。それは、少年のような|仕種《しぐさ》にみえて、この女に一種独特の可憐な感じを与えていた。  その感じは、コルク玉の鉄砲を使って、ブリキで切抜いた猛獣を打倒すときにも現れた。左から右へ移動してゆくブリキ製のライオンや虎を狙って、私は片手で掴んだ鉄砲を思い切り前へ突出す。 「あら、そんなに乗り出したら当るにきまってるじゃないの」  と、彼女は銃床を肩にくっつけて小さな銃を両手で構え、片眼をきっかり瞑って狙いを付ける。  そんな様子の彼女を、私は少し離れて眺めていた。  私が赤鬼にゴムマリを打ちつけてサイレンを鳴らし、元の場所に戻ってくると、彼女の指から血が流れていた。銃の|槓桿《こうかん》を引くとき、指先の皮が破れたのだ。彼女は血の流れている指をピンと立てて、残りの四本の指で槓桿を引張ろうとしている。  私はその指を口に含んで、歯を当てたい欲望に襲われた。しかし、その替りにポケットからハンカチを出して、その指を拭った。白い布に血が滲んだが、指の小さな傷口からはまた新しい血がゆっくり粒状に盛り上ってきた。  私は係の少女を呼んで、備え付けの薬品箱を持ってこさせた。  少女にホータイを巻いてもらっている女を眺めて、私は笑いながら言った。 「射的の鉄砲で怪我をすることなんて、あるものかな」 「あら、よくありますよ。子供がよくやります」  と、係の少女がそう言った。  私はもう一度、笑った。しかし、その女は近く結婚式を挙げることになっている。地味な見合結婚である。  娼婦と一緒に来たスポーツ・ランドで、追想がその点まで進んだとき、私は苦笑した。  私が導いて行かれる場所や風景は、昔の記憶の甘い抒情的な部分にだけ繋がっている筈だった。苦い味からは免れている筈だった。たしかに、そのときは私は平静な祝福する気分で、近く結婚式を挙げる女と別れたつもりだった。  しかし、その次に一人でその射的場に立寄ったとき、私はホッケーの硝子箱の中に異様なものを発見した。  ホッケーのスティックを構えた鋳物人形には、その前までは一つが赤、一つが青のエナメルでユニフォームの形が塗られてあった。帽子を冠り、目も鼻も付いていた。ところが、その日、青いユニフォームの人形が、まっ黒にすすけて目も鼻も消えてしまっていた。火事の焼跡から掘り出された金属の塊のようになっていた。 「これは、どうしたわけだ」  私は驚いて、係の少女に訊ねた。少女は、いつものように、平凡なありふれた事柄を告げる口調で答えた。 「その人形、半分にポッキリ折れちゃってね、それでツナいだらそんなになったのよ」  折れた鋳物を酸素熔接したのだろう、と私はおもった。 「まっ黒じゃないか。目と鼻ぐらい描いておけよ」  私の追想には、一層苦い味が混りはじめてきた。 「もう行くことにしよう」  私は傍の女を促した。 「一緒に家へ来てくれるわね」 「晩飯を食べて、別れよう」 「きのう、あたしが泣いたわけを話すわ、家へ来てちょうだい。今日はずいぶんあちこち動きまわったけど、少しもお話をしなかったじゃないの」  そう言えば、私と彼女とはほとんど会話をしていなかった。女と風景との中に私は記憶の中のいろいろの女性を見出して、その女たちとひそかに言葉を取交していた。しかし、そのように女を媒体にすることは、私の望むところであったのだ。  私は、同じ言葉を繰返した。 「飯を食って別れよう」 「だって、それじゃ意味ないじゃないの」 「意味なくないさ」  女は腕を上げて、チラリと腕時計を見ると、 「あたしが家に居なくてはいけない時間が、もう大分過ぎてしまっているのよ。このまま一人じゃ帰れないわ」 「なるほど、そういう意味か」  記憶の中の風景が蒼ざめてきはじめたころ、丁度傍の女にも苦い味がしはじめた。 「それなら、僕が一緒に行った筈の金を払うよ。時間超過の罰金をね。君と一緒に眺めることができるのは、昼の街の風景だけなんだな」 「だって、仕方がないでしょ」 「そうさ、君ばかり悪いわけじゃない」  私は小さく折り畳んだ紙幣を女の掌の中に押込んだ。女は、にわかにそわそわしはじめて、 「晩御飯は、家へ帰って食べるからいいわ」  女と私はスポーツ・ランドから階下へ歩み下りていた。階下のビンゴ・ホールでは、相変らず単調なラウド・スピーカーの声がひびいている。  金を手に入れてから一層帰りを急ぎはじめた女を見て、私は依怙地な気持になってきた。 「まあそう慌てるな。ちょっとビンゴをやっていこう」 「だって、遅くなる」 「遅くなってもいいようにしたじゃないか」  背の高い椅子の上に、私は女を押据えるようにして坐らせた。B列の8番、D列の12番……。ゲームが始まると、みるみる私の前のカードの番号が一直線に揃いはじめ、あっけなく、私のカードが当ってしまった。 「ビンゴ」  気抜けした声で、私はそう言った。  私の前に、賞品が積み重ねられた。温泉みやげのような羊羹が十本である。 「あんまり、あっけないな。もう止めよう。この羊羹は、君のお土産にあげるよ、持って帰りたまえ。そして、仲間に配ってやるんだな」  私は女の顔を正面から眺めて、そう言った。女の顔には、逞しい娼婦の骨相が浮び上っているように見えた。  私は、女のいるアパートの光景を思い出していた。あの建物の中には、幾人かの売春婦が潜んでいる筈だ。女の部屋の机の上にあったモジリアーニの画集が眼に浮ぶ。あの部屋に連れて行かれたのは、自分を画家だと客引きの男が思ったからだ。きっと、ジェームス・ディーンの大きな写真が飾ってある部屋もあることだろう。学生の客などはその部屋に連れて行かれることになる。  それらの部屋の女たちよ。大いにこの|鄙《ひな》びた羊羹を食べてくれ、そして、ともかく元気で暮してくれ。私はそう心の中で呟きながら、|堆《うずたか》く積まれた羊羹の山を、傍の女に押しやった。 (一九五七年)  編者解説 吉行さんの東京地図                    山本容朗  昔、といっても、昭和五十八年二、三月ごろ、「吉行淳之介氏の風景」という一文を書いた。ことの進行上、少し抜き書きをしてみる。  吉行さんの作品に初めて接したのは、処女作と言われている「薔薇販売人」で、『眞実』という雑誌であった。それ以来の読者、いや、愛読者といってもかまわない。それから、ざっと三十年余の年月が流れている。 「薔薇販売人」を読んだ翌年の四月に、私は大学へ入った。当時、この作品を読んで、どんな感想を抱いたか、今では書きようがない。けれど、冒頭に近い部分だけは、はっきりと覚えている。  勤め先の商事会社へ行くつもりの檜山二郎は、気持が変って逆方向のバスに乗ってしまう。そのあとは、「薔薇販売人」から。 「──、いい加減のところで降りて、出鱈目の路をあちこち曲って歩いていると、不意に眺望が拓けた。眼下に石膏色の市街が拡がって、そのなかを昆虫の触角のようにポールを斜につき出して、古風な電車がのろのろと動いた」  私の記憶にある描写は、この場面である。もう一つ思い出した。この小説には、伊留間という男が登場する。戦争末期の夏、まだ独身で大学を卒業したばかりのころ、彼は自殺をしようとして遺書を書いた。「あんまり暑いのでイヤになった。死ぬ」と書いた。  この作家は太宰治の影響があるのかな、と、少年から青年になりかけの当時の私は思った。それから、私はこの作家から目をはなすことが出来なくなってしまった。  吉行さんの作品は、処女作から、作中人物が、よく街を歩く。そして、この作家らしい独自な風景描写になる。それは、この作家の心象風景である、なんて改めて述べるまでもあるまい。  しかし、吉行さんの小説には、固有名詞を使ってある場合が、極端に少ない。作品全体を通しても、このことは言える。また、「薔薇販売人」の「眼下に石膏色の市街が拡がる」場所は、「東京、小石川の高台にある某町」と記載がある。 「原色の街」には隅田川が出てくる。「風景と女と」では、隅田川、駒形橋、勝鬨橋といった固有名詞が出てくる。「島へ行く」はO島、「風景の中の関係」にはA温泉、I半島と記号が出てくる。だが、やがて、吉行さんの作品には、固有名詞も、いや、その記号すら現れなくなる。  旧稿の抜粋はここまで。吉行さんの作品をそのデビュー作から今日まで読んでいて、いつも気になるのは、作中の風景である。  街を歩いていて、ふと目に入った一つの風景。そのいくつかが作家のこころの深部に沈澱する。それが、やがて結晶作用ののち、作品上に出現するのである。  心象風景とはこんなものだろう。私を四十年余も掴えて放さない「薔薇販売人」の「眼下に石膏色の市街が拡がる」場所、即ち「東京、小石川の高台にある某町」とは、何処なのだろう。  私は、何かと東京を歩きつづけている。そして、もと徳川御三家水戸家の上屋敷跡の小石川後楽園から江戸川橋へ出る道を行く。  その道は、江戸の時代は神田上水の水路で、その|縁《えにし》で、かつては水道端町、水道町と呼ばれている。この道の西北は台地で、坂道がいくつもある。牛天神を右に見て、樋口一葉が学んだ中島歌子の萩の舎跡(右側)のあるのは安藤坂。突当りは伝通院の正門である。  安藤坂の一つ西側を伝通院前に登るのは、金剛寺坂で、坂上の東側(現春日二─二〇─二五あたり)が永井荷風が生れ、十一歳まで育ったところだ。  昨年の桜の花どきに牛天神へ行った。白い花びらは、眼下に拡がっていると思われる町に風に吹かれて散っていった。が、そこには、勿論、石膏色の市街地はない。  吉行さんの作中の風景はいつも気になる。 「昭和二十五年頃からの五年ほど、数えきれないくらい向島界隈へ行った」 「向島は、私にとって青春の土地であった、ということになる」  この二つの文章は「玉の井と鳩の街」(『やややのはなし』文藝春秋刊)という短文のはじめとおわりである。  玉の井は、永井荷風の名作『墨[#底本では「さんずい」+「墨」。以下すべて]東綺譚』で知られる娼婦の町で、鳩の街は、戦後玉の井の娼家がここへ移り形成された新興の同種の町であった。吉行さんの『原色の街』はここが舞台になっている。「玉の井と鳩の街」には、「玉の井の玉ちゃん」と作者が勝手に名付けた美人が出てくる。朝帰りのとき彼女は曳舟駅まで送って来てくれるのである。  こんな挿話を吉行さんは「うらぶれた記憶」というエッセイで紹介している。  ある日、昼間、銀座を歩いていた。その前夜は、「玉ちゃん」のところに泊まったのである。彼女の親切のせいでポケットには百円一枚くらいしか入っていない。「親切のせいで」というのは吉行さんの表現で、今の人にはわかりにくい。サービスがよかったので、とすればわかるだろうか。  そのとき、何年ぶりかで、かつて好きだった女性に偶然、道であった。あとを引用する。 「相手も、昔は私を避けていなかった(筈である)。一緒に昼間の銀座通りを歩いてゆくと、私の躯から娼家のにおいが立上がっている感じがした。相手の女は、金持と結婚していた。私は自分のにおいが、相手に似合わないと感じたとき、彼女はふっと身を避けるようにして、 『わたし、ちょっとそこの店に寄りますから。宝石を見ますの』  と言った。」  これを読んだ時、私にはあの私娼窟と銀座が二重写しに見えた。そして、作者の心の内では、このまったく対照的な二つの町の風景がどのように投影されたのだろうと思った。  これから「街角の煙草屋までの旅」(エッセイ)に触れることになるのだが、吉行さんには自分の住んでいる都会のなかを動くことを旅と受け止めている節が見える。  外国を旅行しても観光を一切しないから、内容は東京を動いているのに近い。 「しかし、私は風景に興味がないわけではない。むしろ関心があるのだが、この件に関しては私の頭の中に写真機のフィルムのようなものが入っていて、チラと見ればそれで済む。『風景』がそこに焼き付いてしまって、適当なときに思い出せばよいことになる。」  これは吉行さんの風景に対する重要な考察であると同時に、また創作作法の一端である、と読める。  この頭の中の写真機のフィルムは、「薔薇販売人」の頃から入っていたのだろうか。いや、その前、ずっと昔から入っていた、と私には思える。  例えば、「自分と出会う」(『やややのはなし』収録)には、次のような一節がある。 「幼稚園に入るすこし前だったはずだが、祖母に手を引かれた私は、広い坂をのぼっていた。左に電車の線路があり、坂の上には木造の小さな駅がある。駅のうしろの空に、夕日が異様な大きさで見えた。しびれるような感じになって立ち止まり、気がつくと半ズボンの裾からウサギの|糞《ふん》のようなものが幾粒もころがり出た。祖母は私を叱り、訪問先の家に引き返して始末させてもらい、また叱った。  それは、どこの駅だったろう。なぜか、山の手線の日暮里とおもいこんでいた。親戚などないのに、不思議である。八年ほど前、日暮里駅裏口のちかくに行くことがあったので、正面にまわってみると、まったくその通りの地形だった」  これは、幼稚園に入る前から写真機のフィルムは入っていた、という一証左にならないだろうか。このエッセイは平成三年三月四日の『朝日新聞』に掲載されたもので、文中の「八年ほど前」とは、昭和五十九年十月のことである。その日、日暮里|本行寺《ほんぎようじ》で結城信一氏の葬儀が行われ、吉行さんはそれに出席したのだ。 「日暮里駅裏口」とあるのは今の北口のことで、ここから|谷中《やなか》銀座へ通じる道で、駅を出るとすぐ御殿坂があり、登り切ったあたりの右側にその寺の山門が見える。  この寺の先の十字路を東へ、谷中墓地の方角へ入ると|所謂《いわゆる》、「ぎんなん横丁」で、幸田露伴が明治二十四年(一八九一)から二十六年一月まで居住した住居跡がある。「五重塔」執筆は、この家で、正岡子規もここに露伴を訪ねている。  日暮里駅北口から、バスターミナルのある正面口に出るには構内の地下の階段、もしくは一度外に出て屋外の、階段を降りなくてはならない。  日暮里の駅舎は御殿坂につづく坂道の途中に建てられていると判断していいと思う。  日暮里駅の広い坂道、それに異様な大きさで見えた夕日──それが幼児期に見た吉行さんの鮮烈な東京の風景だった。なお、この情景は『砂の上の植物群』に使われている。 「昭和二十五年頃からの五年ほど、数えきれないくらい向島界隈へ行った」と吉行さんは書いた。昭和三十三年三月で、この作家の青春の土地であった鳩の街、新宿二丁目といった紅灯の巷は売春防止法の実施で地上から消えた。だが、「原色の街」、「|驟雨《しゆうう》」、「娼婦の部屋」などの吉行作品には、それら娼婦の町の風景が鮮やかに|写《うつ》されている。  それにしても、「玉の井の玉ちゃん」は吉行さんをどんな道順で東武電車の曳舟駅まで送ってきたのだろうか。私はそれが以前から気になっていた。  それにこの作家は、玉の井を背景にした小説を書いていない、と思う。ただ、エッセイに、玉ちゃんの名前が出てくるだけである。それはどういうことなのだろう。  私は赤線の灯が|健在《けんざい》のころの玉の井も鳩の街も知らない。その跡を探訪に行ったのは、今から十五年ぐらい前が最初で、その後もときどきその変貌のほどを|覗《のぞ》きに行っている。  前は、その町、西の入口近くに「鳩の街商栄会」と表示した横書きの札を見た。それが、最近はその入口には門柱の先の方に銀色に光る鉄製の鳩が三羽止まっているのだ。門柱は二本だから鳩は六羽であるが、水戸街道に面した東口には、十五年前も今も、何もない。  吉行さんの「私の小説の舞台再訪」(一九六八)は、赤線廃止から十年目の「原色の街」再訪の記だが、それによるとそのときにも入口には「鳩の街商栄会」と文字の入ったアーチがあったという。これが一九六八年──昭和四十三年で、私の探訪はそれから十年後から始まっている。  永井荷風は、昭和十一年に八ヶ月かかって玉の井をくまなく歩き廻り、この町の地図を書きあげた。勿論、『墨東綺譚』を書くための一つの作業と見ていいだろう。この地図はどういう径路か、荷風研究家の小門勝二氏が入手し、その著作『墨東綺譚の物語』(冬樹社)の見返しに荷風の手そのままではないと思うが印刷されている。このコピーを持って、私は隅田川を越えた。  戦災に遭ったこの町は戦後復興した時、私娼窟は東に移動している。玉ちゃんのいた娼家が水戸街道の東区域だとすると、今の曳舟通りを歩き曳舟駅まで歩くのが普通なのだが、曳舟通りへ出るまでの道路が曲っていたり、途中で行き止りになっていたりするので、厄介なのである。  |何時《いつ》だったろう、私は玉ちゃんが吉行さんを送った道を迷いながら、歩いてみた。  その頃の曳舟通りは、まだ曳舟川が埋立てられていなかった筈である。中央には堀川があり両側は道、そして、流れに沿って柳の木が植えられてあった筈だ。  私はそんな風景を思いながら歩いた。  ここは、「あかしやの金と赤とがちりぞえな。『曳舟』の水のほとりをゆくころを」といった北原白秋の『|片恋《かたこひ》』という詩の町でもあった。それに「ちりぞえな」は江戸時代の遊女の言葉である。  また、堀辰雄は|小梅《こうめ》の家から、この道を北上し、曳舟駅の手前にある円通寺まで、妻と墓参をする場面を「花を持てる女」という作品で書いている。  吉行さんは何故、玉ちゃんを作品化しなかったのだろう。結びつく一つの風景がなかったのだろうか。  鳩の街の西口に近い場所にある露伴の旧居、|蝸牛《かぎゆう》庵跡は、現在児童公園になり、園内には、文学碑が建っている。  吉行さんの鳩の街がらみでは、「雪見団子」と名付けられた挿話が好きだ。これは『娼婦と私』という連載エッセイの一回分で、次のような話になっている。  昭和二十六年(一九五一)、築地にあった出版社に勤めていた吉行さんは、帰り道、橋の上で、ばったり漫画家の小島功、関根義人両氏と出会った。「寒いねえ」「一ぱいやる」ということになり、大衆酒場へ行く。独り身の両氏は元気になり、「こういうときには、どこかへ行きたいなあ」とつぶやく。「どこか」というのは当時都内四十六ヶ所にあった赤線地帯のどこか、という意味である。  両氏はまだ売り出す前である。飲んでいるコップ酒の勘定がようやくで、三人全員金がない。何とかなるかも知れない、鳩の街の「花政」という娼家のオヤジを思い出したのだ。  隅田川を渡ってはるばると出かけた|甲斐《かい》があって、「花政」はツケで泊まることを承知してくれた。吉行さんはオヤジと顔馴染みなのである。  漫画家二人は「花政」へ泊まり、吉行さんは近くへ泊まった。夜半から、雪が降り出した。  |相方《あいかた》は|意地《いじ》の悪い女で、「もう八時よ」と叩き起す。三十分ほどがんばるが駄目でその家を出る。「花政」は表戸を閉めているが、責任上、一人で帰るわけにはいかない。この町を抜けて雪の中を隅田公園まで歩き言問団子の店にたどりつく。幸いにして店は開いていた。  団子を一皿注文して、食べながら、二時間近く、隅田川の雪景色を眺めている。  こんな筋書きだった。  その後、吉行さんの作品では「すれすれ」、「風景と女と」などに隅田公園や言問団子が出てくる。  私の鳩の街覗きで、この吉行さんの「雪見団子」のコースをたどったのは、いつだったか。雪ならぬ桜の満開の日だった。十時半ぐらいだった。墨堤通りの白鬚神社近くに「雲水」という喫茶店がある。ここは明治三十七年(一九〇四)創業の精進料理で有名であった「向島雲水」の現在の姿なのである。精進の名残りはコーヒーとごま豆腐というセットにあった。  森鴎[#底本では「區」+「鳥」。以下すべて]外は大正十一年(一九二二)七月九日に六十歳で死去したが、当時、菩提寺は向島弘禅寺であった。その一周忌に、この「雲水」で追悼の会をやっているのである。その日のここの精進のメニューは、荷風の「七月九日の記」という随筆に記録されている。  その「雲水」でコーヒーを飲み、三、四軒西隣の「|志満《じま》ん草餅」という和菓子屋で草餅を買って、隅田公園へ急いだ。  吉行さんの「雪見団子」の道を歩くのは、桜の日が初めてではなかった。雪はなかったけれど、冬の寒い日にも歩いた。  吉行さんは荷風の近い場所にいる作家と言われたことがあったけれど、間違いではないと思う。  現にこの作家には、「抒情詩人の扼殺──荷風小論」(一九五九)、「『つゆのあとさき』雑感」(一九七一)、旺文社文庫『墨東綺譚』解説(一九七七)、本郷出版『墨東綺譚画譜』解題(一九七九)というユニークな荷風論がある。  一九五九年は昭和三十四年、その九月号の『中央公論』で「抒情詩人の扼殺」を読んだ時の感触を今でも覚えている。 「五十八歳の荷風は、玉の井の私娼窟に、『見果てぬ夢』で表明したロマンチックな心情を抱いて、歩み入ったとはおもえない。むしろ好色のため、といった方がはっきりするが、しかしそればかりではない、いやそれ以上に重要な因子があるとおもえる。  それは私娼窟の風物のもっている陰湿な、うらぶれた、それから安っぽい色彩のもつ悪徳のムードと、その地帯をとりまく昔ながらの江戸の風情を残している隅田川周辺の風物のせいのようだ。つまり、ここにも扼殺し切れない荷風の中の抒情詩人とのつながるところがある」  元来、荷風はロマンチックな抒情詩人で、ある|年齢《ねんれい》から、その抒情の扼殺を志すが、その残存が江戸の風物へのあこがれだと見る主旨は、興味の持てるものだった。  吉行さんの文学的出発は詩であった。しかし、その詩篇を見て、私は抒情を否定したところから歩きだしている、と思った。  それは一八七九年生れの荷風と、一九二四年生れの吉行さんとの時代の差だけでない。簡単に言えば、詩人としての、作家としての資質の問題ということになろう。  面白いのは、荷風は、昭和六年(一九三一)に銀座の女を「つゆのあとさき」で、同十二年(一九三七)、『墨東綺譚』で玉の井の娼婦を描いた。一方、吉行さんは、昭和二十九年(一九五四)、「驟雨」で芥川賞を受賞し、昭和三十九年(一九六四)、「技巧的生活」を『文芸』に連載した。前作は新宿二丁目の女で、あとは銀座の女性が主人公になっている。  時代は違っても、この二作家の視線は行きつく先は同じだ、と思いながら、また、強い関心を|抱《い》だかざるを得ない。  結果、荷風は、『墨東綺譚』中に記しているように「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは|屡々《しばしば》人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった」ということなどだ。  荷風は場所の選択をし、まず、その土地の踏査を念入りにする。そうでなければ、八ヶ月かかって玉の井地図を作ったりはしない。  吉行さんは、舞台になる土地の地図作製はおろか、その土地の取材探訪もあまりしたことはないのではないか。ただ、頭のなかのフィルムの風景を引き出すだけですんでしまうのだから。  東京では、山の手の坂、下町の堀川という。それはそこに住む人々の生活上の目印であるとともに、また、その土地への親しみの表象でもあった。  すでに、荷風は小石川・金剛寺坂の坂上で生れ、十一歳までそこで育ったと述べた。就学のはじめは小石川区小日向|服部《はつとり》坂の|黒田《くろだ》小学校尋常科一年。吉行さんは、岡山生れだが、二歳のとき、東京へ移住し、昭和五年(一九三〇)四月に番町小学校に入学した。  今で言うと、JR市ヶ谷駅から日本テレビへ行く坂道の途中にある家に定住したのが小学校へ入る一年前の春で、それから、戦災で家を失うまでと、戦後も同地に家を建て、芥川賞をもらった後も、ここで作家活動を続けていた。昭和三十一年春ごろ、私が吉行さんとの初対面もここだった。  あの坂の名は新坂。  日暮里駅の坂、市ヶ谷駅前の坂と吉行さんの東京の風景で坂は重要なポイントを占めているように思える。  今の世田谷・上野毛の住居前もかなりな急な坂で、稲荷坂と言う。この家も坂の途中にある。  吉行理恵さんは、兄より十五歳年下の妹。 「私の家は坂道の途中にあります。窓から外を眺めながら、私は空想をはじめることがあります。  母親の後ろから、幼い子供が一生懸命に坂道を上って行く光景がとりわけ好きです。  坂道の途中で、幼い子供たちはたびたびころびます。そんなとき、私は『お母さんの吐息が、子供のポケットにとびこむから、子供は、ころんでしまうのだろう』と、おもいます」  といった詩のような「坂」という文章を読んでも、そこに住む人間の坂に対しての感情を読みとることが出来る。  吉行さんの、「崖下の家」は市ヶ谷の坂のある家と祖母とがからむ小説だが、「家屋について」は住んだ家を思い出しながら綴っていくスタイルの作品で、この作家を知りたいと願う読者にとったら二作とも見落せない。  これも「家屋について」からだが、幼稚園に入る前、四回転居しているという。その一軒は坂の上に建った家で、そこから、雑草の茂った野原が見渡され、夕日が、その野原を赤く染めた風景が思い出されるとも言っている。  また、別の一文。それは「石膏色と赤」というエッセイで、代々木上原に住んだ三歳の記憶だ。 「この場所で最も印象が強いのは、風景についてであることも、考えさせられる。駅を降りて丘を昇ってゆくと、そこに家があった。家の外へ出て眺めると、低いところに雑草の茂った原っぱがある。ここで最も印象に残っているのは、夕方の原っぱの眺めなのだが、そこには夕焼けはない。当然、夕焼け空を背景にした野原を見ているに違いないが、それは脱落していて、記憶に出てくるのは、鈍い白い光が垂れ下るように漂っている下に拡がっている野原である。  その光におおわれた原っぱは、これまで何度となく私の頭の中に出てきていた。そして、私がある時期に作品の中で好んで使った『石膏色』という単語に、その色がつながりがあるかもしれない、と気付いたのは、最近のことである。この白い夕方と私を茫然とさせ脱糞させた赤い夕暮は、いったい何なのだろう」  これは昭和五十一年(一九七六)、五月号の『文芸』に発表になった。この「白い夕方」は、坂の上に建った家かも知れない。「家屋について」は、野原を赤く染めた風景だけれど、ここでは夕日が欠落している。  なお、「家屋について」は昭和三十六年(一九六一)七月号の『新潮』掲載である。  市ヶ谷の吉行さんの家、『原色の街』の芥川賞候補が昭和二十七年(一九五二)一月だから、そのころから、五年ぐらいだろう、いや、そんなに長くなかったかな。この家は第三の新人と言われた安岡章太郎、小島信夫、近藤啓太郎、三浦朱門、庄野潤三氏ら、それに阿川弘之、村上兵衛氏らを入れた若い作家群の|溜《たま》り場の感があった。  十数年前、市ヶ谷附近を久し振りに、昨年は二回同じ道順で歩いた。いつも思う、吉行さんの家は何処だったろう、と新坂を昇ったり下りたりして思う。  市ヶ谷駅から日本テレビの方角へ昇って行く。右側に横浜銀行が入った高層ビルがある。そこが「崖下の家」の跡地だと確認出来たのは昨年のことだった。  ここを歩くとき、私は見知らぬ町を歩いているような奇妙な感慨に打たれる。  日本テレビの角を右へ折れ四谷へ向って行くと左側に法政大学校友会館という建物が見える。ここが、泉鏡花の旧居跡である。千代田区の表示は「明治四十三年五月、泉鏡花ここに移り、昭和十四年七月六十四歳で逝去するまで居住し『婦系図』その他の名作を著した」とあった。しかし、「婦系図」は逗子静養中に書いたものだから、この表示は正確ではない。十数年前から誤りが訂正されていない。鏡花は、ここでは、「白鷺」、「歌行燈」などの代表作を書いた。その時代、道を|隔《へだ》てた向う側には、有島武郎・生馬・里見|※[#「弓」+「淳のつくり」]《とん》の三兄弟も住んでいた。里見さんは、そのころのことを「二人の作家」という作品で書いている。  市ヶ谷附近となると、荷風の「つゆのあとさき」の記憶にある場面が、一、二ある。主人公の銀座のカフェー女給君江は、市ヶ谷本村町に住んでいる。ラストの四番町土手ぎわのベンチで、偶然、落ちぶれた旧知の川島という男と出あう場面は、読む人のこころに影を落す。君江には、|清岡《きよおか》という小説家のダンナがいる。ある夜、清岡は、カフェーを休んでいる君江を見舞いに本村町の下宿へ行く途中、市ヶ谷八幡のベンチで男と密会をしている彼女を見かける、といった|伴《くだ》りを覚えている。  遠い昔のことになったけれど、私の勤めていた出版社は、当時、飯田橋の警察病院裏の方角にあったので、吉行さんの家には歩いて行った。その同じ町内の内田百※[#「門がまえ」+「月」]氏のところにも当然徒歩であった。一とき一口坂のマンションに山本健吉さんが住んでいたことがあった。それに私は永井荷風の担当でもあった。  東京の町を歩いていると、ふとさまざまなことを思い出す。  桜の花どきになると、市ヶ谷駅から市ヶ谷八幡に詣でて、濠端の桜並木を飯田橋まで歩くことがある。昨年、出掛ける日が|遅《おそ》く、花びらの多くは濠の水面やあたり一面に散っていた。それも、また美しかったけれど。 「隣家が燃えはじめた。自分の家に火の燃え移るところが見たかったので、落合う場所を打合せて母と女中に避難してもらった。部屋の中に立って見まわすと、焔のためにあたりは明るくて、書棚の本の背文字が読めた」(「青春放浪」)  というのは、吉行さんの昭和二十年(一九四五)五月二十五日の大空襲で家を焼かれた時の描写である。  桜の木の下を歩きながら、この一節を思い浮かべ、あの年の桜はどうだったろう、と花を見た。  お花見なんて余裕はなかった。しかし桜の木は花を咲かせていたに違いない。それとも時局柄切られてしまっていたのか。 「ある種の晩年意識」というエッセイがある。文中で、「いまの私は四十六歳である」と記述しているから昭和四十五年(一九七〇)のことである。話の内容を要約してみる。  メモ替りに使うために、操作の簡単なカメラを一台買おうと思う。戦後間もないころの一時期、目黒区の谷間のような場所で下宿暮しを一年ほどしたことがあった。大学生のときで食事は駅前の外食券食堂へ行った。そこへ往復するだけで一時間近くかかった。この下宿の女主人は、変った振舞をしているつもりは全くないのに作者を変人扱いをし、近所の人に、『頭がオカしいらしいけど、友だちはいるようよ』なんてかげ口をきく。厭な一時期だったが、ふと懐しくなることもある。  先日も、その谷間の上に立って、考えていた。斜面の下を流れているドブ川に沿って、その下宿の二階屋はあった。もう二十数年経っている。斜面を降りれば確かめられるのに、足が動かない。恐ろしいのである。斜面を降りることが出来ない。これに似た場所が、東京に数ヶ所ある。その所に思い切って立って、その地形風物を写して退散。それでカメラを買おうと決心したのだ。  そのころ、中間小説誌から、「私の東京地図」式のものを書いてみたら、と言われていた。その写真を見ながら、その小説を書くことになるかも知れない。  この連作小説は実現しなかった。しかし、この恐怖のテーマは、昭和五十年(一九七五)一月から八月まで『日本経済新聞』連載の『怖ろしい場所』に結実している。  私はかねてからこの目黒区柿の木坂の|呑川《のみかわ》流域を歩いてみたい、と思っていた。  古い地図を見ると、呑川は世田谷区上馬の方から目黒区へ入り、柿の木坂から東横線都立大学駅近くに出て、更に南下している。  吉行さんの作品にとって必要な呑川は、正式には呑川─柿の木坂水系というらしいが、都立大学駅から北西に走る水路を駒沢通りに架かる|栄《さかえ》橋まで歩けばいいのである。だが、調べてみるとこの呑川は|暗渠《あんきよ》になり、その上は散歩道になっている。工事は昭和五十四年(一九七九)三月にその完成を見ている。  私はJR恵比寿駅から駒沢行のバスに乗った。下車するバス停は「碑文谷呑川」である。  俳句の結社雑誌『春燈』(久保田万太郎主宰)の編集長をやり、万太郎没後、それの主宰を務めていた安住敦氏は、この呑川、それも栄橋の十メートル上流に住んでいた。名なしの権兵衛だと思ってこの溝川を、この俳人は|門川《かどかわ》と名付けて、親しみ、柵渠工事が始まると「無風流な」、と筆誅を加えていた。安住さんの文は『春燈』の編集後記だが、その昭和三十三年(一九五八)四月号では、駒沢通りのバス路線に、新しく「碑文谷呑川」の停留所が新設された日のことが書かれてあった。そして、この溝川を呑川と知るのである。その安住さんも他界した。  この話が頭のどこかにあったのだろう、バスに乗って「碑文谷呑川」を思い出したのである。  バスを降りると、私は栄橋の上から呑川の上流を見た。そこに建てられた石碑には「呑川柿の木坂……」と刻まれ、下の部分は草花のかげで見えない。  都立大学駅へ向う。|金木犀《きんもくせい》、木蓮、ヒメリンゴ、|木斛《もつこく》、|花水木《はなみずき》、染井吉野、八重桜、紫陽花、|百日紅《さるすべり》、|満天星《どうだんつつじ》、アベリア、|石楠花《しやくなげ》といった草花や樹木が散歩道の両サイドを飾っている。時折、案内板が立っている。「さかみちのある住宅地柿の木坂」──それを読むと坂名が地名になったと解説が付いていた。  柿の木坂という坂はあったのだ。ここにも坂のある風景があった。だが、今、「目黒区みどりの散歩道・呑川・柿の木坂コース」と名付けられたこの周囲には、吉行さんの怖ろしい場所のイメージを|惹起《じやつき》させるものは皆無といっていい。ただ、地上の建物は変化したけれど、斜面のある地形だけは昔のままのようだ。 「怖ろしい場所」の主人公は羽山という小説家。二十年前、二十五歳のとき、彼は大学を中退して、数年間、小さな出版社に勤めていた。当時、住んでいた下宿が廃業することになり、新しい住む所を探さねばならなくなった。焼け残った地域を主に見知らぬ町を歩いてみた。すると電柱に「貸室あります」とある。その番地を見ると、斜面の上は高級住宅地、それを降るに従って、建物の規模が小さくなる。  降り切るとドブ川があって、川沿いの道に面して古い二階家があった。「井之口」という表札があり、呼鈴を押すと、出てきたのは、羽山より二、三年上と思われる、若さがなくて年齢があいまいな顔の白さが|澱《よど》んでいる女だった。羽山はその下宿を決める。二食付の下宿だった。この時代、食事付というのは、とにかく貴重。ドブ川の|傍《そば》の二階での生活がはじまる。女は朝食のとき、給仕をしてくれる。「丼一杯めしを盛って、ほっといて下さい」といくら頼んでも駄目。遂には弁当まで用意しはじめた。蓮根の穴に白身魚のすり身を詰めて油で揚げたものとか、ふしぎな発想の料理が入っている。弁当はふしぎにふしぎが重なる。果ては羽山のパンツまで洗濯してしまう。「Y…K」──よし子と圭一郎というイニシャルとしかおもえない赤い糸がパンツの紐に|縫《ぬ》いつけてある。一時も早く下宿を脱出しなくてはならない。この一件の相談にのり、部屋を探してくれたのは会社の同僚の千加子で、その後、彼の妻になっている。二人には子供はいない。  その下宿を出てから十七年後。羽山は十七年前の|亡霊《ぼうれい》に会いに行こう、とタクシーをとばす。 「たしかに、どぶ川はコンクリートでおおわれていたし、畠のスペースには家が建っていた。しかし、蓋をされたどぶ川のほかは、土の地面だった。  思いがけなく、あの見覚えのある二階家が百メートルほど先に、もちろん一層古びてしかし元の形のまま建っていた」  これを見ても柿の木坂呑川流域は、吉行さんの心象内で完熟した東京風景の一つだと信じた。 「ある種の晩年意識」のなかで、吉行さんは、柿の木坂に似た場所が、東京に数ヶ所あると言っていた。  日暮里駅の異様な大きさの夕日を見た坂道、代々木上原の坂上の家の外から見た白い夕方という風景は、その内に入っているのだろうか。  私が気になって仕方がない風景はまだある。それは、あの五月二十五日の大空襲で家が焼かれる瞬間を見た吉行さんは靖国神社と反対方向に|逃《のが》れていく。 「焔の中」には、母親と若い女中と三人で逃れる場面がある。 「僕たちは人の気配のない街を歩いて行った。焼け出された人々は、この方角には逃れて来ず、この町の人々は自分の家に潜んでいるのだ。僕たちは小高い土地を登っているうちにかなり廣い空地に行き當った。どういう場かはっきりしなかったが、あちこちに樹木が生えており、防空|壕《ごう》らしい素掘りの穴もあった。僕たちは、そこの土の上に腰をおろした。  僕たちの坐っている小高い土地は、水濠へ向って低くなっている斜面の途中にあり、街の展望が眼の前に拡がっていた。火は、すでに僕の家を通りすぎ、坂の下から水濠に沿って、對岸の家々を一つまた一つと焼き崩しながら進んでいた。黒いてんてんの|鏤《ちりば》められた焔が天に冲し、その焔は突風に煽られ水濠を渡りこちら側の町に燃え移ろうと試みていた」  風の勢が鎮まって、焔はこちらへ移ってこないと判断した僕は、少し眠ることにしようと提案する。素掘りの防空壕には、粗末な木のベンチが取付けられてあった。 「焔の中」は雑誌掲載時から、読んだ。それからも繰返し目にした。いつも心を打たれるのは、この逃れて、斜面の途中の広場で、休息するこの箇所であった。  吉行さんに、この場所を覚えていますか、と直接聞いたこともあった。「小公園みたいなところで……」とだけ答えてくれた。  若い女中は貯金帳を家に忘れてきた。 「貯金帳も焼いちゃった。六百圓も蓄っていたのに」とさかんに惜しがる。  この|台詞《せりふ》は、この斜面の光景のなかに悲痛なひびきをともなって解け込んでいる。  市ヶ谷の濠端の桜の木の下から、市ヶ谷八幡を的にその高台をいつも眺めながら、私はその小公園を目で追っている。  市ヶ谷八幡から、その高台の斜面を歩いたこともあった。  吉行さんには、「街あるき」、「雑踏のなかで」、「都会の中の旅」といった短かいエッセイにも、「街角の煙草屋までの旅」と同じようにこの作者の旅に対する基本姿勢や街あるきの趣向といったものが見られる。  それに吉行さんには、「雑踏している橋や街路の上に立ち止まって、ビルディングの横腹をチラチラ動いてゆく電光ニュースを読んだりするのが好きだ。(中略)とにかく、僕は雑踏を愛し、都会を愛している。当分、いや死ぬまで花鳥風月の心境にはなりそうにない」(「雑踏のなかで」)といった昭和三十二年推定の文章もあるが、ここにもこの作者の街あるきの考察の一端を|伺《うかが》うことができる。  しかし、この街あるきは考えてみれば、日本近代文学の作家たちの芸の一つと見られないことはない。  勿論、有名なのは荷風の「墨東綺譚」だが、作中の主人公たちが、町をあるき、その時代の風物を巧みに写している作品は数多くある。夏目漱石の「三四郎」には団子坂から谷中周辺、現在は|暗渠《あんきよ》になっている愛染川附近が出てくる。広田先生等一行五人で団子坂の菊人形の見物に行く場面で、この小説の読みどころの一つと言っていい。「三四郎」は明治四十一年(一九〇八)の作品だが、その頃の団子坂を漱石は「坂の上から見ると坂は曲つてゐる。刀の|切先《きつさき》の様である」と記している。  三四郎は熊本から東京へ出てくる。その頃の新学期は九月であったが、大学の池の|周囲《まわり》、田端、道灌山、染井の墓地、巣鴨、護国寺、遠くは新井薬師まで、三四郎は歩いている。街あるきは地方から出て来た青年が東京に馴染んでいく方法でもあった。 「三四郎」に刺激されて森鴎外は「青年」を書いた。発表は明治四十三年から翌年にかけての『|昴《すばる》』であった。これも地方から出てきた小泉純一が「三四郎」と同じ大学に入り、東京を歩きこの都会に同化していく物語である。  金沢の旧制第四高等学校から東大に入る中野重治はその大学卒業年度の一年を「むらぎも」という長篇小説にしている。青森県弘前高校(旧制)出身の太宰治は、昭和五年東大フランス文学科に入学、二十一歳。それから三十歳までの自伝的小説が「東京八景」である。  高見順は、福井生れ、一歳で母と祖母に連れられて東京に来た。父は阪本|※[#「金」+「彡」]之助《さんのすけ》で、当時は福井県知事で、彼は所謂私生児であった。また、順は荷風の父方の従弟にあたる。高見順は「如何なる星の下に」(一九三八)、「東橋新誌」(一九四三)、「都に夜のある如く」(一九四三─四五)等の長篇で、浅草を中心にした東京下町の風物を見事に|捕《とら》えている。  鴎外の「雁」も入るけれど、「三四郎」、「青年」、「墨東綺譚」、「むらぎも」、それに高見順の三つの作品は、主題はそれぞれであるけれど、街あるきが大いに取り入れられている点が共通している。  吉行さんを荷風の近い場所にいる作家と述べたけれど、その文学的資質がもっとも似ていると思われるのは高見順であろう。  高見さんと初めてお目にかかったのは、昭和二十九年の秋だったか、冬だったか。当時、柳ばしの休んでいる料亭の一室を借りて、「都に夜のある如く」を執筆していた。それから十年を越すおつきあいになった。当時を振り返って、かつて私は、「私の柳橋新誌」という絵入り随筆を書いた。  高見さんは戦前に大森に住み、浅草に仕事部屋を借りて、「如何なる星の下に」を『文芸』に連載した。昭和十八年春に北鎌倉に転居し、その死までそこを住いとした。  大森沿岸、鎌倉、隅田川とくると、高見さんのイメージは水である。柳ばしの仕事部屋からは隅田川が眺められた。  吉行さんも荷風も私には坂の人といった印象が強い。  荷風は明治十二年(一八七九)に生れ、その頃、小石川金富町と呼ばれた金剛寺坂上の|東《ひがし》に生れた。この作家は「狐」(明治四十二年一月号『中学世界』)のなかで、「もう三十余年の昔・小日向水道町に水道の水が露草の間を野川の如く流れてゐた時分である」とこの町の姿を言い表わしている。  これは、「薔薇販売人」のなかで、眼下に石膏色の市街が拡がる高台附近の明治十二年の光景だと読んだ。  吉行さんは岡山生れで、二歳のとき東京へ出てきた。その生長期のあらかたは麹町五番町で過ごしたと思われる。新坂の崖下にある家である。  理恵さんの「坂」という作品に触れたけれど、彼女の少女の頃、坂の上に大きな西洋館があったと言う。しかし、そこに住む人たちを見たことはなく、ただ男と女の子の双子が、大人にいじめられているという噂があった。  西洋館は戦災で焼けたが、理恵さんの心のなかには、ときどき甦ってくるといった記述がある。  吉行さんにも、この西洋館に関した作品があったと思う。  坂上の西洋館は言ってみれば奇異な他国といった存在だったに違いない。一方、坂を下ると、そこには外濠の水があり、その水は東へ流れ、飯田橋と隣り合わせにある船河原橋下で、北からきた江戸川と合流し、神田川と名前を改めて、なお、東へすすむ。その先は隅田川である。  千葉県佐原市が舞台になっていて、その堀川の畔りにある病院に入院している青年を主人公にした「水の畔り」という作品が、吉行さんにはある。そのなかで、彼はその流れ沿いの道を河口へ向って追って行きたい、と願っている。行きつく先は利根川である。  旅のこころは極く自然にこんな心情からだって起こる。 「薔薇販売人」、「水の畔り」の作者は、当然、新坂下の外濠から柳橋の神田川、川口までの水の行方に興味を持たない筈はない。  それに吉行さんの作品を通読すると、この人の興味を持つ水は清涼な川の流れでも、青海原でもなく、都会の澱んだ運河や|溝《みぞ》川、それに錆びた海なのである。  吉行淳之介年譜によると、「昭和二十一年(一九四六)目黒区柿ノ木坂に下宿して大学(東大文学部英文科)に通う」とある。続いて、「昭和二十二年、秋、大学を中退して新太陽社に入社、〈モダン日本〉の編集に携わる」ということだが、この新太陽社はやがて三世社と名を改める。ここを退社するのは、昭和二十八年(一九五三)一月のことである。既にこの作家は、「薔薇販売人」、「原色の街」、「谷間」、「ある脱出」を発表し、デビュー作を別にしてあと三作は芥川賞候補になっている。この年、二十九歳であった。  この年譜を少し補足すると、吉行さんは昭和二十年四月、東大入学だが、図書館に動員され、三四郎池の畔で寝ころんで空を見ていたといった一文もあった。  新太陽社は築地一丁目、やがて新富町、その|後身《こうしん》の三世社は神田錦町に社屋があったと聞く。これらの町は水路と橋の水の町である。昭和二十二年から二十八年、吉行さんの編集者の一時期は東京の町が廃墟から復興しつつある時でもあった。そんな町の状況が、この水の町の断片が「男と女の子」(昭和三十三年九月『群像』)を読むと、目前に浮上する。  この物語の主人公・岐部は失業をしている。失業保険や退職金で食いつないでいる。 「岐部の部屋は、郊外の素人下宿の二階にあった。その家のすぐ前に、細いどぶ川が流れている。跨いでは渡れぬ幅なので、ところどころ木の橋が架っている。川の両側は傾斜面になっている。つまり、小さな谷間、窪地の中央の陰湿な場所に、岐部の部屋はあるわけだ。」  ここにも目黒区柿の木坂とそして呑川らしい風景が登場する。戦争で死ななかった唯一の友人・赤堀は陽光社という出版社に勤めている。そこへ岐部はしばしば訪問する。 「陽光社の右隣は、そば屋である。薄暗い店の奥で、白いあたたかそうな湯気が立ち上るのが見えた。真向いは喫茶店で、素透しガラスの戸の向うでは、黒いピカピカ光った雨合羽を着たままの男が牛乳を飲んでいる」  作中の陽光社は新太陽社のイメージと重ねていいものだろうか。それはともあれ、そば屋、喫茶店、牛乳を飲んでいる男など、あの時代のあの町の様子を伝えてくれているのは確かなことだ。  岐部にとって、陽光社へ行くのも一つの旅であった。赤堀の手引きで知り合った北村栄子という少女の勤めるてんぷら屋へ通うことになるのだが、それは陽光社の裏町にあった。  吉行さんにとっては目黒区柿の木坂から、やがて五番町の焼跡に家を建て、そこからの出版社勤めになる。  荷風は大久保余丁町で明治四十一年(一九〇八)から大正十二年(一九二三)築地へ移るまで十五年ばかりそこで過ごす。この坂の町から水の町に移る二年前に庭内に離れを新築し、そこを「断腸亭」と名付けた。  坂の人は対照的な水の町に一種のあこがれを抱くものか。いや、坂のイメージは水を欲するのかも知れない。それを「墨東綺譚」の作者も、「原色の街」の吉行さんも意識していたかどうかはわからない。それとも目に見えない引力の作用か。 「原色の街」の日沼倫太郎の新潮文庫解説は、昭和四十一年(一九六六)のものだが、時々思い出す。 「吉行氏にとっても、読者にとっても、れっきとした観念小説なのだ。この作品には吉行氏の小説におなじみの二つのタイプの女性が登場する。一人はめぐまれた家庭に育ち、精神的文化的な雰囲気をもっているが、根っからの娼婦性をそなえた女性である。もう一人は娼婦という職業をもちながら、どうしても、精神性を排除しきれない女性だ」  この二人の女性の対立|軋轢《あつれき》が「原色の街」の主題だと日沼倫太郎は主張する。この作品に即して言えば、|瑠璃子《るりこ》(令嬢)とあけみ(娼婦)ということになる。が、注意してみるとこれは坂の娘と水の女との対比論で、その両方に対してゆれ動く主人公の心情が主題とも思えてくる。  その心情の底には坂のイメージの強い吉行さんの心情がからむ。  これはまったく作品上での関係なのだが、瑠璃子は、理恵さんの言う坂上の西洋館に、住んでいて|相応《ふさわ》しい女性のようだ。  玉の井の玉ちゃんと一夜を明かして、銀座通りで出会う令嬢。彼女は、「宝石を見に」と立ち去る今は結婚していて人妻である。私は玉の井と銀座を二重写しに見たと言ったけれど、吉行さんの頭の中のフィルムに写された二葉の風景は鳩の街と柿の木坂のように私には考えられる。  吉行さんが大学生で、柿の木坂で下宿をしていた時代、もう新太陽社にアルバイトで勤めていたかもわからない。駅を降りると、下宿へ行く道と別方角に友達の家がある。そこには妹がいる。ある夜、訪ねると一家|団欒《だんらん》で夕食をしている。白いご飯に鮭カンをあけての食事だった。外食券食堂へ通っている吉行さんとは格段の差があり、食事をよばれたがうらぶれた気持になるといったエッセイを読んだ覚えがある。  その鮭カンの妹のその後の姿が、銀座の「宝石を見に」の人妻ではないか、とかつてご本人に聞いたことがあった。吉行さんは黙って|頷《うなず》いていた。  ここにもこの作者の坂と水を見たような気分になった。  新橋のビルの谷間に小さな鰻屋があった。勿論、今はない。最近、ふと電話で話中のとき、「あの鰻屋の屋号が思い出せなくてねえ」と、吉行さんは言った。鰻屋は、鮨屋、蕎麦屋、てんぷら屋、おでん屋、やきとり屋、酒場などとともに古い顔馴染みの町の風景である。  極く最近、用事が片づいたので、一人で銀座並木通りを新橋方面へ歩いていた。下地が入っていたが、少し飲みたかった。少し食べたかった。蕎麦屋はぎりぎり店をやっている時間だったが、そばは重い。過ぎ去った日々、この道を歩いていると、必ずと言っていいくらい作家たちと顔を合わせた。映画の試写会へ行くという十返肇さんに会うのはこれより、二、三時間早い時間だ。伊藤整さんに同じ道のドイツ料理店で|犢《こうし》のカツレツをご馳走になったのは、昼間だった。  吉行さんとも何回となく通った道だ。「エスポワール」や「濱作|西店《にしみせ》」のある通りの四丁目から行った角は薬屋だった。ある夕暮れ、その前で立止って、当時|流行《はやり》だしたスタミナドリンクを買ってきて、「これを飲んで元気を出そうや」と言った。  この道の先に「よし田」はあった。高見さんと銀座で待合せるのは、|決《きま》ってこの蕎麦屋だった。その頃、仕事部屋は柳橋から新橋の休業中の旅館に移っていた。  その日、私は三十年前には行きつけだった「磐亭」という鉄板焼屋に寄った。その後は看板に灯が入っていると、健在なのだと、安心しているだけであった。元電通通りを高速4号線の下をくぐった新橋一丁目の角にその店はある。この付近の小路に吉行さんの行く鰻屋はあった。 「追悼佐藤春夫」(昭和三十九年)はこんな冒頭だった。 「十年ほど前に新橋に小さいウナギ屋があった。五十半ばの主人は、坊主刈りでつやつやと血色がよく、話に聞く江戸時代のお茶坊主のような風態で、俳句をつくったりした。(略)  ここのウナギが旨かった。というのは、一つには、私は関東風に蒸してから焼くスタイルに馴染めないからで、この店は蒸さないで焼く関西風であったためもある。もっとも、焼く炭も三重県から取寄せたりして、なかなかの気の配りようであった」  吉行さんはここへ佐藤春夫ご夫妻を案内することになる。ただ、「旨いウナギですが、ただオヤジがすこしお喋りで、うるさいかもしれません」と断っておく。この店の主人は一種の偏窟で機嫌がいいと矢鱈に喋る癖があった。  結局は味の方は上々の首尾であったが、この先生は「やはり主人がすこし喋りすぎるな」とおっしゃった。  突然、このオヤジは店をたたんで郷里に帰ってしまった。店を閉じたのを知らずに、私は行ったことがある。とにかくいつの間にか風のように消えてしまった鰻屋。 「怖ろしい場所」の主人公羽山圭一郎は小説家で目黒のアパートメントに住んでいる。大学のころからの友達の川田鉱三は税理士で日比谷の田村町寄りのビルの一室に事務所を構えている。羽山の税務関係は川田が処理している。 「男と女の子」の岐部が赤堀の出版社へ通うように、羽山も川田の事務所へ顔を出している。  岐部は郊外の谷間のドブ川の|畔《ほと》りの下宿から水の町へ。羽山は目黒のアパートメントから銀座新橋といった繁華な町へ出ていく。これは簡単に言えば、山の手から下町へといった構図ではないか。  羽山と川田は馴染みの関西料理店や酒場へ足を向ける。  その日、運の悪いことに、その関西料理店自慢のあら煮の鯛の身が、すこしやわらかい。魚肉が締って歯ごたえがあるのが、特長なのである。作中はこんな会話が続く。 「お女将さん、この鯛、身がすこしやわらかいな」  川田が苦情をつけると、 「うちの鯛にかぎって、そんなこと」  女将は不機嫌になった。 「きっと鯛の機嫌が悪いんだろう」  と、羽山が取りなすと、女将は笑い出した。 「怖ろしい場所」は、いつ読んでもこの料理店のところで思い出してしまうことがある。  作者は、かつて令嬢と娼婦という対照で「原色の街」を書いた。ここでは性格の異なる二人の男性を、それも四十代になった分別ざかりの彼らを標的にしているように、思われる。そう言えば、岐部と赤堀は二十代で、戦後の混乱期だった。それから四十歳になった彼らの一つの後日譚として、「怖ろしい場所」は読めるのである。  それにしても、作者の山の手から下町への風景への視線は変ってはいない。  川田鉱三の立ち居振るまいに阿川弘之氏を感じるのは、私ひとりであろうか。それにこの関西割烹のモデルは銀座の「濱作西店」のように思える。  新橋の鰻屋も「濱作西店」も昭和三十年代につれていってもらった。  このところ吉行さんは、光文社の『文庫のぶんこ』という小冊子に「人生における小道具」という連載をしていた。この一月に出た号は最終回で「おでん屋」だった。これには「おでん屋」とのかかわりが回顧的に語られ、昭和三十六、七年ごろの赤坂TBS前の屋台の話が出てきた。  何かの電話のとき、一緒に行かなかったかな、と問われたので、覚えていない、と答えたけれど、「おでん屋」、「やきとり屋」それに所謂、縄暖簾に行った記憶がない。  吉行さんに最初に連れて行かれた店は両国の「かりや」というちゃんこ鍋屋で、昭和三十一年晩秋のことであった。それから、と続けて、そんな酒場や食い物屋まで綴っていったら際限がなくなる。  昔、「吉行淳之介は女を風景の一つとして見ている」といった批評を読み、頷いたことがあった。これに付け加えれば、この作家にとっては、鰻屋も酒場、屋台のおでん屋も女と同じ風景なのである。  吉行さんの文芸の最初は詩で、その詩は抒情を否定している場所からはじまったと言ったけれど、小説を読んでいると、例えば「砂の上の植物群」でも、その否定し、|扼殺《やくさつ》した筈の抒情が丁度指の合間からこぼれ落ちる砂のように、落ちている場面が見られる。「夕暮まで」でも同じく見られた。 「隅田川に架けられた長い橋を、市街電車がゆっくりした速度で東へ渡って行く。その電車の終点にちかい広いアスファルト道の両側の町には、変った風物が見えているわけではない。ありふれた場末の町にすぎない。  商家の女房風の女が、エプロン姿で買物籠を片手に漬物屋の店さきに立止り、樽に入っている白菜を指さきでひっぱって、漬かり加減をしらべている。漬物屋の隣の本屋では、肥満して腹のつき出た主人が店頭の雑誌にせわしくハタキをかけていたが、その手をふと止めて呆んやり空を見上げている。空には夕焼雲のほか、何も見えていない。大きな手に握られたハタキが、地面に向ってだらりと|垂《た》れている。  本屋の隣は大衆酒場で、自転車が四、五台それぞれ勝手な方向をむいて置かれてある。その酒場の横に、小路が口をひらいている。」 「原色の街」の書出しである。小路が口をひらいている、その奥は鳩の街である。私はこの冒頭が好きだ。これにも抒情はこぼれ落ちていないか。長い間、漬物屋、本屋はどうしたろう、と考えていた。この光景は一変しているだろうと思って、十五年前の鳩の街探訪をはじめたのだ。その頃は、吉行さんの小説に見られるこの町の風景はまだ残存していた。面影があった。今、水戸街道の状況はかなり変った。かつて、雷門、浅草、吾妻橋一丁目、吾妻橋二丁目、向島須崎町、寺島一丁目、二丁目と続く都電が走っていた。寺島二丁目は都電の終点だった。今のバス停なら東向島広小路である。明治通りを越すとむかしの玉の井。  永井荷風の「寺じまの記」(昭和十一年四月)は、雷門から京成乗合自動車に乗って玉の井へ行く旅行記といっていいものだが、見事にその沿線の叙景が写されている。  この春、私は向島百花園へ行くつもりで、雷門前から金町行のバスに乗った。東向島広小路で降りればいいのだ。バスのなかで、「原色の街」と「寺じまの記」が|交互《こうご》に浮かんだり、消えたりする。  私には、それらの時代を懐かしむ資格はない。ただ、永井荷風、吉行淳之介という二人の作家が作品のなかで刻んだ風景を心持の上で|手繰《たぐ》り寄せれば満足なのである。 「浅草のほうから隅田川を渡るのだが、それにはさまざまな形がある。都電で渡って、寺島一丁目(都電廃止でその停留場もなくなった)で下車し、左側の横町に入ってゆくことが最も多かった。」(「玉の井と鳩の街」)  バス停で東向島広小路の手前は東向島一丁目である。その前は向島五丁目で、鳩の街商栄会通りはその西側で、その中間にある。  吉行さんには、「『墨東綺譚』鑑賞」(昭和三十年六月号『文芸』)というこの文学作品に関するエッセイがもう一つあった。荷風が死去した直後に書かれた「抒情詩人の扼殺─荷風小論」より四年前で、芥川賞受賞後、間もなくのものである。  前から気付いていたのだが、「下界の眺め」という表現が吉行さんの初期の作品にはしばしば見られる。それは坂を|下《くだ》って、町へ出ていくという感覚である。これはもう立派な旅の感情ではないか。  荷風の「深川の散歩」という随筆は、同じような場所にいる作家が、同種の感情で処した文芸作品だが、これを持って、私は何回となく深川を歩いている。  バスのなかで、私はまだこの二人の作家の川向うの土地の描写を手繰り寄せている。       一九九三年五月 有楽出版社刊 〈底 本〉文春文庫 平成七年二月十日刊